九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

我が家を広げる

我家を広げる

 

 「方丈記」のように山中でひっそりと暮らすのが私の願い。不動産屋の友人に「川のせせらぎが聞こえる、森に中の小さな一軒家があったら」と探してもらっている。

 私は今、週二回エアロビクスのレッスンに、大分スポーツ公園まで歩いて通っている。この公園は、昔はまったくの原野であったがサッカー場を整備するために造成された。二十年経ってようやく雑木林がよみがえり、隣接の高尾山自然公園と合わせて、我が家から往復三時間のお気に入りの散歩コースである。

 歩きながら考えた。何も住処を、自分で買ったマンションの一室に限定して考えなくても良いのではないか。ほんの少しだが住民税も払っている。この公園を自分の家の一部としても良いのではないか。

 帰る途中には、築五十年以上経つ古い分譲住宅団地がある。どのお宅も良く手入れした庭を持っており、冬でも美しく花を咲かせてくれる。私は、庭の手入れをしている人がいたら、必ず立ち止まって、花や木をほめることにしている。自分の庭ではないのだけれど感謝しているのだ。

 マンションの近くの公民館には、図書室があり、市民図書館にネット予約すれば、すぐ届けてくれる。台所を汚したくない日は、徒歩五分のところに、私が「ご近所B級グルメ」と呼んでいる数軒の飲食店があるので、気の向いた店に入り、ビールを飲みながら小一時間小さな旅をする。

 最近は、街の暮らしも悪くないと思い始めた。

 徒歩で一時間を許容範囲として、東に行けば、ゆったりと大野川。土手に立ってアユ釣りを眺めたりする。土手の近くに酒飲みの友人の家があり、お手製の鮎のうるかを貰ったこともあった。

 西に下れば、大分川が光る。元気がある日には、滝尾橋から、河口に向かって歩く。なぜか加藤登紀子の古い歌「少年は街を出る」を歌ってしまう。

 やるせない日には、明野西小学校の裏に行こう。見渡せば、久住山由布岳鶴見岳が仲良く連なる。ひっそりと大分市街、霞む別府湾。夕暮れ時はまるで極楽浄土だ。 

 方丈記鴨長明は、時折、山伝いに遠出をしている。私も、今度、松岡から臼杵に抜ける道ができたので、実家のある臼杵まで歩いてみよう。臼杵の農産物を大分に運ぶための道との事で、トンネルのおかげで車で十分も短縮されたとか。

 こうして我が家が広くなれば、私が思うより先に、一歩を踏み出してくれる靴が欲し苦なる。

一週間は7日間

一週間は7日間

 

 一週間は、7日間を単位とする世界の取り決め。勤めを辞めたら新しい時間の単位で暮らせるかと思ったが、やはり一週間単位だ。

 月曜日は、エアロビクス教室。大きな鏡の前で頭から指先まで点検する。前日の登山の疲れをほぐすのにも都合が良い。すでに鏡に写して見るほどのものではなくなっているが、明日をも知れぬ生身の身体、そこそこ愛おしい。

 火曜日は、県南で仕事。仕事は好きだが少々のストレスもある。電車を降りて大分駅前の居酒屋に寄り、その日の稼ぎでビールと焼き鳥。まるで日雇いのおっさんではないか。

 水曜日は、短歌教室に出る。生徒はほとんどおばあさんで、庭に花が咲いた、古い友人が呆けた、夫の体が弱ったことなど、みな似通った歌ばかりを読む。「それがどうしたの」と心の中で思ってしまう私は、なりたての未熟な老人である。

 木曜日は雨。九六位山の向こうの臼杵の実家も雨だろう。父は雨の日には「うるおい休み」と納屋で農機具の手入れをしていた。私も、「今日は一日中読書だ」と村上春樹の世界に行く。

 金曜日の夕食は、家の近くの居酒屋でカキフライと瓶ビール。昨日読んだ「村上春樹雑文集」に出ていたメニューだ。春樹氏は、「6個のカキフライに静かに励まされ」、食べ終わったら「今でもどこかの森で誰かが戦っているのだから」と結んでいた。何と素敵な文章だろう。私もカキフライとたっぷりのキャベツに励まされた。

 土曜日は、午後からハンガリー刺繍の練習をする。リネンのハンカチに花模様を刺していく。世界中の女性達は、窓際や暖炉の前で刺繍や編み物などで、長い長い時間を過ごしてきた。だから噂話やおしゃべりが得意になったのだろう。

 旅先で出会ったエベレスト街道の宿屋のおばさん、サハラ砂漠ノマドの家のおばあさん、蘇州の民芸館の織子さん達。みんな手仕事しながら、絶え間なくおしゃべりをしていた。 

 日曜日は、霊山に一人で登る。内稙田登山口から、鳥の声を友達に雑木林を二時間、山頂から大分市街、臨海工業地帯、別府湾を望む。明野団地もビッグアイも見える。この町に来て四十五年、引越しの時は息子を背負っていた。

 娘が仙台に引っ越すときに置いていった、鉢植えのハーブが紫色の花をつけたので、写真をスカイプで送った。

 こんな風に一週間を回しているうちに、二月が終わる。これで良いとは思っていないが、抜け出す方法がまだ見つからない。

 この地は、豊後水道のおかげで冬のまっただ中でも暖かい。それでも首筋に寒気を感じた日は、夜なって少し熱が出る。

マリちゃんへ

 

 年賀状の時期になると、短大の寮で、いつも石川啄木の「初恋」を大声で歌っていた真理ちゃんを思い出す。彼女は演劇部に所属し、アルトで太い声を持っていた。その声を生かしてか、背が低かったからか、芝居では少年の役が多く、得意そうに良くこなしていた。

 福岡のサラリーマン家庭で育ったマリちゃんの、大事に育てられた女の子特有の天真爛漫さは、農村育ちの私にはまぶしく、私たちは、演劇のこと、文学のこと、おしゃれのことなど尽きることもなく語り合った。学生バンドの追っかけもやり、ダンスパーティーで同じ人を好きになったりもした。

 卒業するとマリちゃんは、愛知県に行き、幼馴染の男性と結婚。私も、衝撃的な出会いに思えた人と結婚し、数年後には後悔することとなった。しばらくして、風の便りに、真理ちゃんが子供二人連れて離婚した。原因は夫の不倫とDVと知らされた。あの真理ちゃんを叩くなんてと一瞬身が縮む思いがしたが、人生は手強い、いろいろなことが起きるのだと胸に沈めた。

 以前、北海道の小樽に出張したとき、駅前で石川啄木の歌碑をみた。「子を負いて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」。この歌は、私がそれまで知っていた「東海の小島の磯に・・・・」や「柔らかに柳青める北上の・・・・」などの感傷など一気に吹き飛ばす歌だった。

 雪の降る冷たい停車場で、職も定まらず、親戚や友人に借金を続ける夫を見送る。いつも女性の影がある。背中に子供の重み、眉に不安が滲み出ていたに違いない。天才は残酷なほどに妻の疲労、不安を歌っている。啄木の数ある歌の中から、これを選んで歌碑にしたのはどんな理由からだろう。読む人によっては妻へのいたわりの歌と思えたのかもしれない。

 啄木は小樽から釧路へ、そして東京へ。貧しいまま26歳で亡くなった。妻も29歳で、二人いた娘も若くして亡くなっている。今、啄木の才能を継ぐ人はいない。

 この雪の停車場の歌について、私は最近少し考えが変わった。もしかしたら妻は、啄木の才能を信じて、今度こそはと祈っていたのかもしれない。妻も文学少女で、啄木とは文学仲間であったのだから。背中の子供は温かく二人を確かにつなぐものであったに違いないと。 

 マリちゃんとは時折、途切れながらも年賀状のやり取りをした。その後、年下の青年と結婚し、子供とも仲良く暮らし、相変わらず演劇もやっているようだ。

 マリちゃん、私たちの人生も、啄木のセンチメンタルなどはるかに超えた大ドラマだね。

 私たち、今度会ったら何度も何度もこの歌を歌おう。

「砂山の 砂に腹這いて 初恋の痛みを 遠く思い出る日」

貧しいおばあさんは清々しい

               貧しいおばあさん

 最近、4歳と2歳の孫に受けているのが「むかし、むかし、明野団地に二人の子供がいました」で始まる、兄のレイチ君と妹のふーみんが登場する、我が家オリジナルの昔話である。これに近所に住む貧しいおばあさんが1人加わる。このおばあさんはリュックサックにおむすびを2個入れていつも山に出かける。

 昨年、大分県立図書館主催のストーリーテリング(語り、聞かせ)講座を受けて、日本の昔話や外国の民話をたくさん聞くことができた。日本の昔話は、たいていは、貧しい老人夫婦が出て来て、心優しく正直、お地蔵さんに傘をかぶせるなど良いことをして、ご褒美がもらえるストーリー。時々、欲張りなばあさんも登場するが、それなりの罰を受けて分かり易い。外国の民話には、なぜか賢い子供が出てきて、悪者をやっつける話が多い。

 数年前、「教育資金の一括贈与に関わる贈与税の非課税措置預金」が始まった。小金持ちの老人向け税金対策用か、1.500万円を上限とする孫への生前贈与的な預金制度だ。孫が4人いる未亡人の友人など「肩身が狭いのよ」と嘆いていた。サービスを開始するとき、銀行に「子孫に美田を残さず」のことわざを知る大人はいなかったのか。祖父母の貯金をあてにして大学に行く子は、ろくな大人にならないだろう。

 しかし「下流老人」「老後破産」など老人を貶めることばが溢れ、財産の多寡が人の価値を決める時代にあって、子孫に何を残せばいいのだろう。賢い老人たちを集めて語り合ってみたい。たぶんみんな「お金」と言いそうだ。 

 自分を「貧しいおばあさん」と呼ぶとなぜか落ち着きが良く、清々しい。これからは衣食住も質素を心がけよう。夜は、テレビショッピングなど見ないで、ささやかな晩酌のあとは、月を少し眺めて早めに寝よう。お金のかかる交友関係からは少し遠ざずつかろう。だんだん「方丈記」に近づいて来た。そのうちSNSのプロフィ-ルや名刺も「貧しいおばあさん、明野団地在住」と書こう。 

 今年は、孫にお年玉をあげなかった。代わりにせがまれるままに「我が家の昔話」を聞かせた。貧しいおばあさんのこれからの活躍が楽しみだ。

 

ニューヨーク7日間

 ニューヨーク9・11メモリアルパーク、ワールドトレードセンタービルの跡地に、ノースプールとサウスプールという2つの滝の形をした記念碑がある。黒い正方形のプールの四方の壁から、水が細かく激しく溢れ出し、真ん中にある小さな正方形の穴に向かってなだれ落ちる。プールの淵にはそれぞれのビルで亡くなった2083人の名前が刻まれている。ビルの谷間に響く水音は、火災で亡くなった人の体を冷やしているようにも、残された人の溢れる涙のようにも聞こえる。私はこんなに美しく悲しい記念碑を見たことがない。どうぞこの水音が永久に途切れることがありませんように。

 私は、ニューヨークは2回目である。前回は20年前、全米オープンテニスを観戦するためにテニス仲間と一緒に来た。そのときはまだワールドトレードセンタービルは2本並んでスクッと立っていた。

 今回は、10月中旬、ニューヨークで働く甥の招きで母親である妹と2人で訪れたもの。滞在は6日間。ニューヨーク住まいが3年になる甥が私たちの希望を聞きながら行動計画を立ててくれた。 

 1日目、まずマンハッタンの真ん中にある甥のセキュリティー完備のワンルームマンションへ。夜は牛肉の濃い味のするハンバーガーと濃いビール。2日目、バスツアーとクルージングで市内の全体把握。夜は中華料理のあとブロードウエイでミュージカルをみる。3日目、ニューヨーク近代美術館MOMA)見学のあと、セントラルパークを散策。夜はピザと小澤征爾が貧しかったボストン時代に呑んだと伝える「青いリボン」というブランドのビール。4日目、甥の勤務する職場訪問。マンハッタンの街を見下ろす21階フロアにある大手商社。ここで世界戦略を立てるのか。そのあとグランドゼロの見学。夜は厚いステーキとカリフォルニア・ワイン。このあたりですっかりニューヨークに慣れた。5日目、アメリカ自然史博物館。夜はチェルシーマーケットでえび料理とニューヨーク・ワイン。6日目、ソーホーでショッピングのあとイタリア料理店でパスタとイタリア・ワイン。7日目、町並みを確認しながらタクシーでケネディ空港へ

 前回来た時は、シックな街並み、夜の大人っぽい賑わいに「ニューヨークは自分に合っている。帰りたくない」と強く思ったが、今回は少し違った。メディアによる偏見もあるだろうが、経済活動のために整えられた街と人々の群れ。様々な人種。流行りなのだろうかモノトーンの服がビルの谷間を行く。今の私には、この街で生きていくための強い知性のようなものが足りないと見える。それは私が年をとったせいか。

 米国の9・11テロへの報復は、アフガニスタン戦争、イラク戦争を引き起こし、そして今、イスラム国によるテロ攻撃に世界中が怯えている。

 帰りの飛行機の窓から念願のアラスカを見た。長時間、氷の大地が続く。酷寒で静寂、地球上にはまだ、人が敢えて行かなくていい場所も残っているのだ。

 そのうち飛行機は錦秋の日本列島上空へ。成田空港に着いて、バスで羽田空港へ移動。そして大分空港。バスで夜の大分駅、自宅までタクシー、最後はマンションのエレベーター。ケネディ空港を出て約17時間。ニューヨークは意外と近い。

大分百山完登

 大分県は森林が約71%を占める”山の国”である。大分自動車道を福岡方面から日田に入ると左右に連なる山々、釈迦岳など津江日田山群だ。さらに走ると車窓に湧蓋山、由布山、時にはくじゅう連山や祖母・傾山などが遠望できる。

 JR日豊本線で県内を南下すれば、宇佐平野の向こうに院内、耶馬渓、国東半島の山々。大分平野を過ぎると目にちょうど良い高さに姫岳、鎮南山、彦岳などが続く。豊後水道沿岸の山々は、海の照り返しを受けて冬でも明るい。

 「大分百山」は、日本山岳会東九州支部が、1980年に、県内で名前が付いている山が1000余りあり、その中から「姿が美しい山」「地元の人に親しまれている山」「登山、ハイキングができる山」などの条件で100山を選んだもの。私は「登山道もよくわからん、蛇が出る山なんか登らん」と思っていたが、2年ほど前、百山を完登した人の「意外と感動するよ」の言葉に挑戦を決意した。これまで登った山の山頂記念写真と百山のリストと照らし合わてみると、残り28である。山の仲間に「雪野は百山に挑戦する」と宣言し、協力を呼びかけた。

 月に1、2座のペースで登り、最後は今年5月、宮崎県境にある桑原山1400メートルである。登った人の話では百山中、一番の難関との触れ込み。最初から急登、前の人の足を睨みながら這い上がる。「正午までに山頂に着かなければ、引き返す」とリーダーのK氏。「私はこんなことに負けるはずはない」と健気な私。足がつりそうになりながらもなんとか山頂にたどり着いた。山頂にある小さな石の祠に、これまで一緒に登ってくれた人達に感謝して缶ビールをたっぷりかけた。

 登山の慰めは「花」である。春、マンサクの花から始まり、すぐ山桜。祖母山周辺のアケボノツツジが終われば、くじゅう連山がミヤマキリシマに埋まる。足元にはスミレ、イワカガミ、リンドウなど。どれも毎年、一生分堪能したと思うのだが、翌年も誘われればまた行ってしまう。

 役目を終えた村々にも出会う。葛に巻きついた家や神社、朽ちた墓。村ができたのと同じくらい長い時間をかけて、また原野に戻るのである。

 山はまた、イノシシや鹿の栖でもある。イノシシを目にすることはめったにないが、甘い木の根を好むらしく上手に穴を掘っている。鹿は、木の陰から静かにこちらを見つめていたりする。最近は過疎のせいか、鹿やイノシシが増え、田畑を荒らすとか。罠を仕掛けたり、動物避けネットを張ったりと人間も良く応戦している。

 

 私は今年で70歳になる。百山を制覇したこの足を信じて、もうしばらくは新しい景色を見に行こう。近くに住む孫の家にも小走りで行こう。

「騎士団長殺し」読む

 五月の連休に、村上春樹の「騎士団長殺し」を読んだ。発売は昨年の二月だが、新刊発売の騒ぎが治まるのを待っていた。

 今回の主人公は三十代半ばの画家である。何かの理由で妻に去られ、自信をなくし絵も描かずにいる。留守番がわりにと貸してもらった友人の別荘で、屋根裏部屋に隠してあった「騎士団長殺し」の絵を見つけたことから、物語は展開する。

 全体に流れるテーマは、悲しみをどう癒していくか、怒りをどう治めていくかである。ホロコースト南京事件など悲惨な事件に関わった人々を登場させ、深く長い苦しみについて書いている。

 村上春樹の小説には、音楽が象徴的に使われるが、今回はオペラ「ドンジョバンニ」と「薔薇の騎士」。どちらもアマゾンで無料で聴けるので、主人公と同じように曲を流しながら読む幸せも味わった。(こんな時、インターネットがある時代に生きていて本当によかったと思う。)

 物語の中で特に、主人公の一日を詳細に語る場面が好きだ。朝コーヒーを入れ、サラダを作る。パンを焼く。シャツにアイロンをかける。音楽を聴きながら絵を描く。夜は星をちらっと見る。そんな普通の暮らしの中で、主人公は悲しみを徐々に癒していく。

 私たちは次々に生まれてくる不安、個人では手に負えない事件や事故に取り囲まれている。この主人公のように、日常をきちんと手順通りに過ごすことで、不安や恐怖を少しづつ手懐けていける気がする。

 今回、村上春樹が、東北大震災をどう書くかが注目されていたが、最後に少し触れているだけである。主人公が、別れた妻の産んだ女の子を引き受け、保育園への送り迎えをする日々「テレビで流れる悲惨な光景をできるだけ見せないようにした」と。いつか村上春樹も「東北大震災」を書くだろう。それはいつだろう。私たちはまだ「3.11」の恐怖の真っ只中にいる。

 イシグロカズオ氏がノーベル賞をもらう前のこと、村上春樹はイシグロについて「彼と同時代に生きていることを誇りに思う」と書いていた。私も、村上春樹と同じ時代に生きていることを誇りに思う。(彼は、私より二ヶ月後に生まれている。)