九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

老年時代を行く

 老年時代を行く         (2016.8)     

 エアロビクスのレッスンの後で、床に座って余韻に浸っていたら、若い人が「気分でも悪いのですか」と覗き込む。テニスの帰りにラケットを持ってコンビニに寄ったら、店員が「エーッ、まだコートで走れるんですか」と声をあげる。私は老人にみえるのだろうか。

 書店には「老後破産」「下流老人」とおぞましいタイトルの本が並ぶ。だれがこんな言葉を作り出したのか。中身の多くは国の政策批判とお金の話である。だから貯金を、保険をとの結論である。

 この国で生まれ、学校に通わせてもらい、良い仕事をする。そして税金を払い、良い子を育て、年を取れば静かに隠居ぐらし。この当たり前のストーリーは思い込みだったのか。とりあえず私はこの国の下流で良い。

 老年時代とは何か。ボーボワールやモロウ、五木寛之上野千鶴子からハウツー本までたくさん読んでみた。私が期待する答えはない。もしかすると野上弥生子の晩年の作品や瀬戸内寂聴の饒舌な発言に答えがあるのかも知れない。

 身近に良いお手本もある。私の登山の師匠である星子貞夫氏は86才。毎年2回は海外遠征隊を組織する。5月にマチュピチュから戻ったばかりで、もう10月のヒマラヤ・トレッキングの準備をしている。今回は私も同行する予定だ。また、私の友人の母親は99才、別府の自宅で一人暮らし。最近は70歳を越え、すっかり老けた友人に「あんた私の妹だったかなあ」と聞くそうだ。

 仮に100才まで生きるとして、今のところ私に期待される役割といえば、母親の葬式を出すことと、娘と息子に「お母さんは大丈夫だから、自分が幸せになることだけを一生懸命考えなさい」と見栄をはり続けることくらいである。期待される役割のない日々、長い老年時代をどうするか。人生の百年の計である。もう少し探って行こう。

 年を取って着るために、コムデギャルソンやヨウジヤマモトの服を捨てないで残してある。白髪に似合うと思う。どこに着ていこうか。八十歳になった私に早く会いたいものである。