九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

幸せな朝

 「こんなことがあんたの幸せなのか、それでいいのか」と、同業の仲間に言われると困ってしまうのだが。

 日曜日の夕方、近所にすむ息子から「嫁さんが高熱で、僕も明日は早朝から仕事で、保育園の送り迎えに困っている」とメールが来た。私は「タクシーで私が連れて行く」と折り返した。翌朝七時に息子の家へ到着、四歳と二歳の孫を預かり、この日は月曜日なので、オムツや着替え用の袋にお昼寝用の布団二組が加わった。

 初めてのタクシーに「こわい」と泣き叫ぶ二歳、やたら道案内をする四歳。運転手のおじさんが気を使っている。保育園に着くと、わらわらと親子連れがいっぱい。荷物と二人をそれぞれの保母さんへ渡す。2歳は神妙な顔で保母さんから検温されている。四歳はもうどこかに行って姿が見えない。君たちなりにここに馴染んでいるのがちょっと切ない。

 玄関脇に給食室が見える。清潔に磨かれた厨房で、私と同年輩らしいおばさんがもう立ち働いている。この園のお昼もおやつもきっと美味しいだろう。

 外に出ると、息子から無事に着いたかとメールが来た。心配するな。お前たちが小さい頃、私も毎朝、自転車で保育園に通った。一人を背負い、一人を後ろに乗せ、前にオムツと着替え、猛スピードで自転車をこいだベテランだ。

 そうか私の奮闘の日々など、赤ん坊だった息子は覚えていないのだ。あの頃の若い未熟な母親の失敗など、私以外の誰も覚えていないのだ。慌てて熱いお風呂に入れたこと、海辺に寝かせていたら旋回して来た大きな鳥にさらわれそうになったこと、弁当の日を忘れていたことなどなど、ごめんなさいごめんなさいと自分を責め続けて来たが、もう記憶から消しても良いのだ。

 ”大役”を果たしたので気分が良く、家まで歩いて帰ることにした。歩くと良いことがある。日に二、三時間しか営業していない評判のパン屋が開いていた。菓子パン二個で五百円近い、高い。しかし、奥さんか従業員かわからないが、思いがけないほど丁寧な対応に、なんか許せる。まだ温かいパンを紙袋から取り出し、歩きながら食べた。一時間ほど歩いたらいつもの公園。最近、孫と一緒に歌う「パプリカ」を大声で歌った。帰り着いたら九時前、今日はまだ私の時間がたっぷり残っていると嬉しくなった。