九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

終わっている

 元旦の日本経済新聞「春秋」欄を読んで、もしかして終わっているのでは、と思った。

 紙面のトップは「資本主義を創り直す・成長の未来図」。記事によると、日本は、三十年間も実質賃金が増えておらず、国民総貧困化と云われ、非正規雇用者が40%を超え、女性の活用は進まず、国民の幸福度は他の先進国に比べて見劣りしている、と。いつの間にこんなことになったのか、とあらためて驚く。

 そして、いつものように左下の「春秋」欄に目を移す。期待して読み始めたら、夏目漱石の著作が引用されていた。「えっ、今なぜ漱石なの」。別に漱石が悪いわけではない。漱石は引用されることが多い作家なので、私は、タブレットの読書アプリに全集をダウンロードし、その都度参照しているほどだ。

 「成長の未来図」を描こうとしているこの場で、引用するのにふさわしい作家は、他にいなかったのか。もしかして、新聞の読者が高齢化しているので、それに合わせて、共感を得やすく漱石にしたのか。それとも、筆者が高齢で、脳内のネットワークが自然に明治の文豪に繋がってしまうのか。それとも、今が、日露戦争の時代と類似しているとでも思っているのか。それなら本当に日経新聞は終わっている。

 終わられても困る。私は、土曜版の読書欄をひいきにしている。最近、紹介されて読んだ本に、上野千鶴子著「在宅ひとり死のすすめ」がある。高齢化社会にあって、高齢者は社会や家族に甘えることなく、介護保険制度を利用して、しっかりと一人で死んでいく設計をしようと提案している。私もそう考えている。高齢者ビジネスにはすり寄らないぞと。

 もう一冊は、ブレイディみかこ著「ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー」である。移民社会のイギリスに暮らす、日本人の母親と英国人の父親を持つ中学生の「ぼく」が、偏見や差別に出合うたびに、悩み、知恵を絞り、自ら解決していく話である。この本を読めば、移民を受け入れていない日本の若者が、グローバル社会の切磋琢磨から何歩も遅れをとっていることがわかる。

 さらに、この本は、欧米で広がっているルッキズム(外見至上主義)への批判も、教えてくれた。誰も、見た目で判断されない時代が来る。容姿がどんどん劣化していく私にとっても良いことだ。

 私は、できれば家族や親戚から、”水戸のご隠居”ではないが「明野の隠居」とよばれたい。幸い隠居には、読書や考える時間がたっぷりある。今何が起きていて、これがどう変化して、自分らの生活にどのように関係してくるか、しっかりとした考えを持っておきたい。そんな年寄りが、身内に一人ぐらいいた方が良いだろう。だから私も終われない。誰も相談に来なくても、別に構わないが。