九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

本から貰うもの

 

 実家の法事で、小学生がいる親戚三軒に「一家に一冊、吉四六さん」と、挿絵も楽しい吉四六さんのとんち話を配った。吉四六さんは、実家のある臼杵に伝わる「こしきい」お百姓さんの話。頓知話が面白く、子供の頃、年寄りに話をせがんだものだ。

親戚の子供たちは、田舎のお百姓さんの話など好きではないかもしれないが、大人になって社会で辛い目に遭った時、家に吉四六さんの本があることを思い出して、ちょっとだけ笑ってくれたらそれで良い。

 三年前から、ボランティアで電話による心の悩み相談をやらせてもらっている。相談者とは一期一会。すぐに答えは見つからないが、あの本に答えがあるのにと思うことがある。図書館や書店の棚の前をウロウロするだけでも、何か見つかるはず。

ピッタリの答えが見つからなくても、夏目漱石森鴎外などは、本を開いただけで気持ちを落ち着かせてくれるだろう。「赤毛のアン」や「星の王子さま」などは、読んでいるうちに自分が優しくなっているのに気づくだろう。だから街には図書館や書店が必要なのだ。

 誰でもそうだと思うが、三十代から四十代にかけて、社会や自分に満足できないでいた。そんな頃に読んだのが、ロマン・ロランの「ジャン・クリフトフ」と「魅せられたる魂」だ。

「ジャン・クリフトフ」は、ドイツ生まれの天才的作曲家の生涯を描いたもの。「魅せられたる魂」は、第一次世界大戦前後に生きた未婚の母アンネットの物語。

彼らとは、生きている時代も国も違うが、私と同じように悩んでいた。だから一緒に生きているように感じ、読み終えた時は一緒に乗り越えたと思った。二冊は、今も書棚にある。

 私の一日は、朝の十五分読書から始まる。今は、プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいる。十九世紀末のフランスの上流階級の物語。有名な貝の形をしたマドレーヌの話も出てくる。十四巻あり、今、三巻目。一巻では子供だった語り手の主人公も少年になった。この少年と仲良くしながら、二年かけて読む計画だ。

 読書の後は、近所の公園で六時半からやっている朝のラジオ体操に出かける。この習慣も私を励ましてくれる。

俳句、始めました。

 5年前、仕事を整理して名刺も廃棄したとき、自分のことを説明するのに困るので、肩書きを「文学修業中」とした。

 文学修業は、読書、詩、エッセイ、短歌と手当たり次第にやっている。仕事と違ってお金にはならないがストレスがない。さらに一年前から俳句も始めた。

 

 月に一回の句会に三句提出し、先生の批評を受ける。

はじめての句会に出した五七五。稚拙か。

「木枯らしを 迎えに行かむ 霊山へ」

「山椿 散らばる道を とぼとぼと」

「大根の 白きを前に 思案する」

 

 俳句には季語があり、季節ごとに詠む対象が決まっているので作りやすい。

春になると、詠むものが増えてくる。これまで何気なく見ていた景色も句にする。

啓蟄や なにか蠢く 靴の底」

「鎮南山 今年生まれのメジロなく」

「履歴書を書く女子もいて 春のカフェ」

 俳句関係の本も読む。高浜虚子が「あさがおにつるべ取られてもらい水」と小学校で習った有名な句を人情的、通俗的であると切り捨てていた。確かに虚子や師匠の正岡子規の句は、抽象度が高く、難解である。

 

夏に詠んだ三句。やはり通俗的か。

「新緑や 赤児すやすや 乳母車」

「ひとり居の 老女の庭の 木香薔薇」 

「紫陽花が 長き不在の 家守り」

 

山を登りながら作ることもある。途中の景色を良く観察するようになった。

「登山靴 固く結んで 下山かな」

雷鳥の くぐもる声や 常念岳

「湧き上がる 夏雲踏みて 富士の峰」

 

 この夏は、新幹線で何度も広島駅を通過した。ちょうど大江健三郎の「ヒロシマノート」を再読していたこともあり、詠んだ句。

「新幹線 黙して入る 広島忌」

 

 孫の運動会に「さきちゃんも来てね」と誘われる。保育園、小学校、地域の三つの運動会が終わると、もう秋の空である。

鰯雲 子を育てしも まぼろしか」

「この村も 老人ばかり 柿熟す」

「鉄瓶の 湯の沸く音も 秋深し」

 

 今年は、周りで亡くなった人が多い。冬の山を歩いていると、会いたいという思いが込み上げてくる。

「木枯らしや 行きて戻らぬ 誰彼も」

 今はこれで精一杯である。

 書いたものは、インターネットで公開しているが、読まれることは滅多にない。家族や友人に教えても迷惑そうだ。だから自分で解説してみた。これも修業である。

詩のように美しい1日

 習慣にしている早朝読書で、ナタリー・ゴールドバークの「魂の文章術」を読んでいたら「詩のように美しい一日を書き留めよう」という文章があった。この本は何度も読んだのに気がつかなかった。詩のように美しい一日とはどんな一日だろう。

朝食をベランダで済ませたあと、部屋の片付けをする。民生委員の仕事の折、一人暮らしの老人の救助に立ち会ったことがある。物が散乱している部屋で、土足の救急隊員が遠慮がちに作業をした。だから、私がもしもの時に、救急隊員が気持ちよく作業ができるようにと、部屋を片付けておく。

 午前中は外出の予定がないので、また読書。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読む。十五年ほど前の作品だが読まずじまい。最新作の「街と不確かなその壁」と関連があるらしいので、上下二巻を集中して読んでいる。

ピンク色のスーツを着た太めの女性が頻繁に登場する。彼女の作るサンドイッチが美味しいと、サンドイッチの作り方の話が続き、ここで集中力が切れた。村上春樹氏は作家になる前、喫茶店のマスターをしていたので、軽食の話が必要以上に出てくる。説明がリアルなので、食べたくなる。作りたくなる。

 点けたままのユーチューブから、養老孟司氏の「新参勤交代、二拠点生活」などの話が聞こえてきた。「あっ、私もそう思っていましたよ」とそちらに意識がいく。

夏は長野県の上高地でアイスクリームを売りながら暮らす。冬は奄美大島で公園の草むしりなどをしてと妄想する。どこで暮らしても仕事はする。家賃くらいは稼ぎたい。貧乏性がなおらない。

午後からは近くの公民館で太極拳教室。先生も生徒も高齢。二時間、腰を落としてゆっくり舞う。皆、寡黙だ。別の日にはエアロビクスも習っている。習い事の「米中対決」だ。で今のところ、私の中では中国の太極拳が勝っている。

 終わったら、お昼がおむすび一個だったので、お腹が空く。

近くのうどん屋で牛丼を食べる。うどん屋なのに丼物が美味しい。丼に顔を突っ込んでいたら、朝読んだ本の「詩のように美しい一日」のフレーズを思い出した。もう夕方になろうとしているのに、今日一日、詩のようでもなかったし、美しくもなかった。

 いつか、そんな日に出会えたら、見逃さず書き留めておこう。まわり道をして、公園の落ち葉を踏みならして帰った。

旅の途中

 リビングの一番見やすい場所に、大きな世界地図を貼ってある。何もすることがないとき、ぼんやりと椅子に座り、空を眺めたり地図を眺めたりする。

 これまで最も遠くに行ったのはスコットランドのスカイ島。英国のフットパスを歩くツアーの最後のコースだ。日本の最北端宗谷岬よりまだ北に位置する、夏しか人が訪れない島に三日間滞在した。二日目は雨でトレッキングは中止となり、他にすることもないので、古いホテルのベッドに腰掛けて、ポートリー湾を眺めながら、ここに住むことを考えていた。

 一番高い所は、ヒマラヤのゴーキョピーク五千四百メートル。登山隊を組んで、ピークを目指して十日間、いくつもの村を通り抜けた。村の宿屋で一日、近くの子供達と遊んだことがあった。子供達は、イギリスの篤志家が建てた小学校に通っているとかで、手の甲にアルファベットを書いて練習していた。陽に焼けた彼等の肩のはるか上には、エベレストが白く光っていた。

 地図を眺めていると、行きたいところが次々に出てくる。シベリア鉄道で、トルストイを読みながらモスクワまで行きたい。チベットのラサの街に五体投地で入りたい。リスボンの街を、長いスカートで歩きたい。

 一年に一カ所行くとして、年金生活者だ。そのうち旅費が尽きる。いや何よりも寿命が尽きる。

 万年を生きる亀なら、何度も世界一周ができるだろう。いつも散歩する高尾山公園の堤に亀が数匹棲んでいる。この堤は、灌漑用に明治の中頃造成されたもの。亀にいつからいるのかと尋ねてみたいが、高々百年しか生きられない人間が何を聞くかと笑われそうである。亀はそのうち、大野川に出て別府湾から東シナ海へ。百年後には悠々と揚子江を遡っているかも知れない。羨ましくもあり切なくもある。

 ベランダから九六位山が見える。山の向こうは臼杵市、まだ実家がある。深い谷間の底のような場所。先祖は、戦国時代に棲みついたらしい。谷に沿って細い道が一本通っている。子供の頃は、その道をやってくる誰かをぼんやり待っていた。

高校を出るとすぐ、小走りするようにその谷を出た。あれから長い時間が経ったのに、たくさん旅もしたのに、実際はまだ、山一つ越えただけである。

急がないでいいよ

 小学生になった途端、孫は顔が引き締まった。子供部屋には時計がおかれ、登校時間、授業の時間割、塾の予定と、時間と一緒の生活がはじまったのだ。

公園で一緒に遊んでいる時さえ、生意気に「いま、なんじ」と聞く。

 一方、私は、時間に追われる夢を見る。大抵は昔の仕事のことだ。「何度そろばんを置いても手形の合計が合わない」「プログラムの修正を急かすコンピュータのエラー音」「講演が始まるのに、講師が到着しない」などなど。

思い出すだけでも、背中に汗をかく。焦りがまだ体の奥に残っている。

 時間は、一直線に過去から未来へ向かって行く。だからどんな時も急がねばならないと思ってきた。

 ところが、アフリカの狩猟民族は時計がないそうだ。夜が明ければ狩に出かけ、日が落ちれば村に戻る。その繰り返しの日々なら確かに時計はいらない。

 最近、退職して暇になった友人達とよく山に登る。彼らは、競走するように山頂を目指し、少し休憩したらすぐ山を駆け下りる。私は冗談で「せっかく山に来たのだから、山でゆっくりしようよ」と言ってみるが、誰も取り合ってくれない。急いで帰っても、お風呂、夕食と、昨日と同じことをするだけではないか。

 私たちは「急ぐこと」が人生の習慣になっているのだ。

 私は、夕方になると、マンションのベランダに一人分の晩酌セットを用意する。最近は赤ワインだ。西陽を受けて明るい九六位山を眺めながら始める。

 そのうち眼下の駐車場に、車が次々に戻って来る。家々の窓に点々と灯りが入る。我が家には、テレビもないので、これといった予定もなく、ベランダに座ったままで良い。

 こんな時間を繰り返していけば、私の焦った記憶も、赤ワインの澱のように、そのうち静かになるだろう。

 同じ頃孫は、公文教室だ。フルスピードで計算問題をやっているはず。君の人生は始まったばかりだ。

近くに公園と図書館がある家

 

 今よりも良い家はないかといつも考えている。不動産屋の友人とのおしゃべりで「飯田高原で山小屋風」や「佐賀関半島の砂浜に続く家」など、そのうち探してと頼んでいる。エッセイストの松浦弥太郎氏が「ニューヨークにいた時、近くに図書館と公園がある家を探した」と書いていた。私はこの人の衣食住についてのエッセイが好きで、ほとんど読んだ。できる事は真似もしている。

「近くに図書館と公園がある」家かいいなあと思ったところで気がついた。今の私のマンションは、歩いて五分のところに大分市明治明野公民館の図書館があり、裏の駐車場から階段を上ってすぐのところに天然塚公園が広がっている。まさに「近くに図書館と公園がある家」ではないか。

 明治明野公民館の図書館は、職員が1人の小さな図書館。図書の所蔵数は少ないが、自宅のパソコンから市民図書館のデータベースを検索し、貸出手続きをすれば、週2回、本が図書館まで届く。欲しい本はほとんどあるし、気に入った本は読書日記に残す。

 大分市のこの図書サービスとワンコインバスのサービスで、私がこれまでに払った住民税は、取り戻したと感じている。

 天然塚公園は、明野団地の建設時に造成されたもの。元々原生林だったからか、公園課の手入れが良いのか、50年経って、立派な森となった。春には大木のサクラやコブシの花。夏は、ナラやカシの木の緑陰。雨が続くと、スギやクヌギの下はたちまちキノコの森になる。

 私は、孫のところに行く時や毎日の買い物に、遠回りをして公園の中を通る。冬の今はクヌギの落ち葉を踏んで歩く。サクサクという音が、夜になっても耳に残っていてよく眠れる。

 今のマンションは、25年ほど前、バス停が近いことと子供と3人で暮らすのに良い間取りだったので購入した。子供は結婚していなくなり、私は退職して家にいることが多くなり、暮らし方も少しづつ変わっていった。いつの間にか図書館と公園は、私の生活に馴染んでいた。

 これからはもっと読書や散歩の時間を増やそう。不動産屋の友人に、新しい家は探さなくてもいいよと言おう。と思ったところで、いや違う。何か引っかかる。「読書と散歩」は老人向けの雑誌が薦めるお手軽で安易な生き方ではないか。私はそんな手には乗らない。乗るわけがない.

 

木になりたい

 

 

火焔山(シルクロードにて)

                   木になりたい


 私は若い頃「大陸の奥深く、丘の上に立ち、一本の木になりたい」と、詩に書いたことがある。

田舎の街で、私なりに出口を探していたのだろうか。その思いは、いつも心の底にあって、機会を捉えては、中国大陸に出かけるようになった。退職してからは、仕事仲間と中国経済視察団と称して、毎年のように、中国奥地へ旅行した。

2017年には、新疆ウイグル自治区ウルムチトルファンまで行き、バスで念願のシルクロード・天山南路を走った。陽炎の立つハイウエー、この先に、オアシス都市タシケントサマルカンドがある。必ず行こうと熱くなった。

そのうち、コロナ騒動で海外旅行はお預けとなり、それならと、シルクロード中央アジアに関する小説や資料を集め勉強をした。

中央アジアは、天山山脈パミール高原タクラマカン砂漠などに囲まれた草原と砂漠の土地。周辺の大国、アラブ、モンゴル、ロシアなどから絶えず侵略され、その度に都市は廃墟となり消える。国境や統治者が次々に変わる。どこからかやってきて住み着いた多民族、多言語の人々。彼らの遺伝子には、侵略者の蹄の音や戦車の音が残っているだろう。

 昔から、綿花、葡萄、羊毛が主な産業である。ソ連崩壊後に独立国家となった現在も、人々は低収入で貧しいようだ。国が強くならなければ、大国や外国資本の手が伸びる。

 

 日本は島国で、地続きにある隣国を持たないので、侵略される怖さを実感として持ちにくい。

中国人の知人に、日本が侵略したことをどう思うかと聞いてみたら、「中国は広く、どこにでも逃げられる。敵はそのうちに追いかけて来なくなる。そんな歴史ですよ」と笑いながら答えた。

 以前、仕事で、海外からの技術研修生の受け入れに関わったことがある。国の指導もあり、労働環境はそれなりに配慮されていたと思うが、時々、逃げ出す研修生がいた。彼らに教えておくべきだった。ここは島国で、二時間も電車に乗れば海に出る。そこで行き止まりだと。 

 

 秋の午後、私は、近くの公園にある低い山に登り、堀江敏幸の薄い夢のような短編集を読んでいた。今年の秋は、木枯らしが吹くのが遅いせいか、森はまだ紅葉が残っている。柔らかい風が葉を散らす。この時、私は一本の木になっていた。