九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

俳句、始めました。

 5年前、仕事を整理して名刺も廃棄したとき、自分のことを説明するのに困るので、肩書きを「文学修業中」とした。

 文学修業は、読書、詩、エッセイ、短歌と手当たり次第にやっている。仕事と違ってお金にはならないがストレスがない。さらに一年前から俳句も始めた。

 

 月に一回の句会に三句提出し、先生の批評を受ける。

はじめての句会に出した五七五。稚拙か。

「木枯らしを 迎えに行かむ 霊山へ」

「山椿 散らばる道を とぼとぼと」

「大根の 白きを前に 思案する」

 

 俳句には季語があり、季節ごとに詠む対象が決まっているので作りやすい。

春になると、詠むものが増えてくる。これまで何気なく見ていた景色も句にする。

啓蟄や なにか蠢く 靴の底」

「鎮南山 今年生まれのメジロなく」

「履歴書を書く女子もいて 春のカフェ」

 俳句関係の本も読む。高浜虚子が「あさがおにつるべ取られてもらい水」と小学校で習った有名な句を人情的、通俗的であると切り捨てていた。確かに虚子や師匠の正岡子規の句は、抽象度が高く、難解である。

 

夏に詠んだ三句。やはり通俗的か。

「新緑や 赤児すやすや 乳母車」

「ひとり居の 老女の庭の 木香薔薇」 

「紫陽花が 長き不在の 家守り」

 

山を登りながら作ることもある。途中の景色を良く観察するようになった。

「登山靴 固く結んで 下山かな」

雷鳥の くぐもる声や 常念岳

「湧き上がる 夏雲踏みて 富士の峰」

 

 この夏は、新幹線で何度も広島駅を通過した。ちょうど大江健三郎の「ヒロシマノート」を再読していたこともあり、詠んだ句。

「新幹線 黙して入る 広島忌」

 

 孫の運動会に「さきちゃんも来てね」と誘われる。保育園、小学校、地域の三つの運動会が終わると、もう秋の空である。

鰯雲 子を育てしも まぼろしか」

「この村も 老人ばかり 柿熟す」

「鉄瓶の 湯の沸く音も 秋深し」

 

 今年は、周りで亡くなった人が多い。冬の山を歩いていると、会いたいという思いが込み上げてくる。

「木枯らしや 行きて戻らぬ 誰彼も」

 今はこれで精一杯である。

 書いたものは、インターネットで公開しているが、読まれることは滅多にない。家族や友人に教えても迷惑そうだ。だから自分で解説してみた。これも修業である。