小学生になった途端、孫は顔が引き締まった。子供部屋には時計がおかれ、登校時間、授業の時間割、塾の予定と、時間と一緒の生活がはじまったのだ。
公園で一緒に遊んでいる時さえ、生意気に「いま、なんじ」と聞く。
一方、私は、時間に追われる夢を見る。大抵は昔の仕事のことだ。「何度そろばんを置いても手形の合計が合わない」「プログラムの修正を急かすコンピュータのエラー音」「講演が始まるのに、講師が到着しない」などなど。
思い出すだけでも、背中に汗をかく。焦りがまだ体の奥に残っている。
時間は、一直線に過去から未来へ向かって行く。だからどんな時も急がねばならないと思ってきた。
ところが、アフリカの狩猟民族は時計がないそうだ。夜が明ければ狩に出かけ、日が落ちれば村に戻る。その繰り返しの日々なら確かに時計はいらない。
最近、退職して暇になった友人達とよく山に登る。彼らは、競走するように山頂を目指し、少し休憩したらすぐ山を駆け下りる。私は冗談で「せっかく山に来たのだから、山でゆっくりしようよ」と言ってみるが、誰も取り合ってくれない。急いで帰っても、お風呂、夕食と、昨日と同じことをするだけではないか。
私たちは「急ぐこと」が人生の習慣になっているのだ。
私は、夕方になると、マンションのベランダに一人分の晩酌セットを用意する。最近は赤ワインだ。西陽を受けて明るい九六位山を眺めながら始める。
そのうち眼下の駐車場に、車が次々に戻って来る。家々の窓に点々と灯りが入る。我が家には、テレビもないので、これといった予定もなく、ベランダに座ったままで良い。
こんな時間を繰り返していけば、私の焦った記憶も、赤ワインの澱のように、そのうち静かになるだろう。
同じ頃孫は、公文教室だ。フルスピードで計算問題をやっているはず。君の人生は始まったばかりだ。