九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

旅の途中

 リビングの一番見やすい場所に、大きな世界地図を貼ってある。何もすることがないとき、ぼんやりと椅子に座り、空を眺めたり地図を眺めたりする。

 これまで最も遠くに行ったのはスコットランドのスカイ島。英国のフットパスを歩くツアーの最後のコースだ。日本の最北端宗谷岬よりまだ北に位置する、夏しか人が訪れない島に三日間滞在した。二日目は雨でトレッキングは中止となり、他にすることもないので、古いホテルのベッドに腰掛けて、ポートリー湾を眺めながら、ここに住むことを考えていた。

 一番高い所は、ヒマラヤのゴーキョピーク五千四百メートル。登山隊を組んで、ピークを目指して十日間、いくつもの村を通り抜けた。村の宿屋で一日、近くの子供達と遊んだことがあった。子供達は、イギリスの篤志家が建てた小学校に通っているとかで、手の甲にアルファベットを書いて練習していた。陽に焼けた彼等の肩のはるか上には、エベレストが白く光っていた。

 地図を眺めていると、行きたいところが次々に出てくる。シベリア鉄道で、トルストイを読みながらモスクワまで行きたい。チベットのラサの街に五体投地で入りたい。リスボンの街を、長いスカートで歩きたい。

 一年に一カ所行くとして、年金生活者だ。そのうち旅費が尽きる。いや何よりも寿命が尽きる。

 万年を生きる亀なら、何度も世界一周ができるだろう。いつも散歩する高尾山公園の堤に亀が数匹棲んでいる。この堤は、灌漑用に明治の中頃造成されたもの。亀にいつからいるのかと尋ねてみたいが、高々百年しか生きられない人間が何を聞くかと笑われそうである。亀はそのうち、大野川に出て別府湾から東シナ海へ。百年後には悠々と揚子江を遡っているかも知れない。羨ましくもあり切なくもある。

 ベランダから九六位山が見える。山の向こうは臼杵市、まだ実家がある。深い谷間の底のような場所。先祖は、戦国時代に棲みついたらしい。谷に沿って細い道が一本通っている。子供の頃は、その道をやってくる誰かをぼんやり待っていた。

高校を出るとすぐ、小走りするようにその谷を出た。あれから長い時間が経ったのに、たくさん旅もしたのに、実際はまだ、山一つ越えただけである。