九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

電車の中で本をもらった

 「良かったら、この本をもらってください」と、電車の中で、隣の席の男性が 紀伊国屋のカバーのかかった文庫本をくれた。

 私は、夕方からの仕事で大分駅から亀川まで行く途中で、持参した本を読んでいた。宗教の勧誘かしらと思ったが、断る理由がとっさに出てこないので、受け取って開いて見たら、佐藤愛子のエッセイ集。その方は「私は関西から別府に引っ越してきたばかり、今日は紀伊国屋書店に行ってきました。もう読んでしまったので良かったらもらってください。あなたは本が好きそうなので」とのこと。少しだけ、佐藤愛子さんの最近の著書にふれたあと、「どうぞそのまま読書を」とゆうので、また本に戻った。

 その方が別府駅で降りる時、ちらっと見るとツイードのジャケットをゆったりと着た、70代後半の上品な人であった。

 別府湾はいつも、ゆったりと海を抱いて、風の吹くままに白い波を立てている。

 漁船や定期フェリーが往き交い、時にはクジラが迷い込んだりする。

 その別府湾からそのまま立ち上がる高崎山。今日は、どこに隠していたのか赤、黄、紫、青の衣をまとって頂上まで宝石のようだ。

 私はいつも行きは別府湾を眺める側に、戻りは高崎山が見える側に座る。

 車窓からの景色は変わらないが、いつのまにか私は乗客の中では年長の部類に入っている。

 この電車で通学する学生たち、スマホから顔上げて、この景色を眼に焼き付けておきなさい。すぐに都会に出て「ビルの谷間」で働くのだろうから。死ぬほど辛い日もあるだろうから、腹にしっかりこの景色を収めておきなさい。

 本をくれたおじさんも、電車でこの景色を眺めながら、大分駅紀伊国屋に行って本を買い、どこかでコーヒーでも飲みながら読書をしたのだろう。

 今夜寝付く前に、別府湾の景色や、私にくれた本のことなどを思い出すのだろうか。どうぞ、別府に引っ越して来て良かったと思っていてくれますように。

 私は日記に、その日あった良いことを3つ書くことにしている。今夜は「電車の中で見知らぬおじさんに本をもらった」と書く。