九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

これからは文章修業

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 この三月に、中小企業診断士の事務所を閉じ、「これからは念願の文学修業に入る」と家族に宣言した。

 私は、七十歳になる前後から、これからの日々をどう過ごそうかと考えてきた。出た結論が「文学修業」である。そう、私はこれがやりたかったのだ。ではどうするのか。

 まずは読書だろう。書店、図書館、アマゾンから「あっこれ読みたい、今読まねば」と思ったものを次々に手に入れる。昨年、あの忌まわしいテレビを処分したおかげで、時間もたっぷりある。椅子に座ったらまず本を読む。目が疲れたら空をみて、頭が疲れたら近くの公園を散歩する。なんて幸せな事だ。

 図書館で借りた本は、読みっぱなしでは申し訳ないので読書日記をつける。誰かにすすめたいと思ったものは、短文の練習と思って、感想文をフェイスブックに載せる。

 そして、短歌も修業の一つに入れよう。日野昌美老師の短歌教室に通い始めて五年。月に二首を持参して添削をしてもらう。師は「うん、いいですね。よくわかりますよ」と言いながら手を入れる。途端に、私の稚拙な歌が定型の立派な歌になる。師が手を入れすぎて違う歌になることもあるが。

 まだ他所様にお見せできるものではないが、風が吹いた、雨が降った、誰かとすれ違ったなど何でもないことが、三十一文字の小宇宙になる。

 詩は、学生の頃から書いて来た。詩は、もう一人の自分に会いにゆくように書く。もう一人の自分が私は結構好きだ。ときおり、鳥肌が立つような作品ができることがあり、新聞や同人誌に投稿する。最近、誰かに読んでもらえればと、ネットの創作サイトに掲載を始めた。

 もう一つ、地元の新聞社の文章教室でエッセイを勉強している。日頃感じている違和感のようなものを捉え、原稿用紙三枚程度にまとめる。書く時は、考え過ぎてか、首の後ろが熱くなる。

 今のところ、先生の添削を受けた後、秘密のブログに載せてある。そのうち「村上春樹」のいうような「誰も書かなかった世界を自分の文体で」書けるようになりたい。

 文学修業は、仕事のようにプライベートの時間と分ける必要もない。山に登るのも、飲み会も、同じ話ばかりする女友達とのおしゃべりも修業の内である。修業のために諦めなければならないものは何もない。

 定年退職後、勝手に文筆家を名乗っている男性の友人がいる。すでに電子書籍を三編ほど販売しているが、今のところ私も入れた身内三名が買っただけである。居酒屋でお酒を飲みながら「今度は定年がないからいいね」などと励ましあっている。そう、この修業は終わりのない旅。邪魔する人もいないし、ゆっくりで良いのだ。