九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

みどりが足りない

緑は足りているか。

 モノレールから見下ろす東京は、思いの外、緑が多く目が癒される。でもこの高層ビル群で働く人たちをそこに置いて見ると、この緑ではとても足りない。人がはみ出してしまう。そんなことを考えている私は、登山仲間十四人と恒例の夏山遠征の帰りである。

 今年は、会津駒ケ岳、至仏山そして尾瀬ヶ原ハイキングであった。

 会津駒ヶ岳は、鬱蒼とした樹林帯が続き、朝から熱射病になりそうであった。さすがに森林限界を越えると風が気持ち良く、山頂の青い沼の側にはサクラソウワタスゲチングルマなど花盛り。往復七時間、二千メートル級の山をまたひとつクリアした。

 至仏山は二千二百メートル。台風12号が近づく中、尾瀬ヶ原を眼下に、濡れて滑りやすくなっている蛇紋岩の道を注意深く登った。岩の間からナデシコギボシが顔を見せる。ここはもう秋である。

 山頂で他の登山者から「みなさんおいくつですか」と聞かれ、リーダーは「平均年齢63です」と答えた。実際は68である。変なところで見栄を張ったものである。

 雲の間から関東、東北の山々を望む。登っていない山の何と多いことか。

 尾瀬ヶ原のロッジは、東京あたりからの若者で賑わっていた。夕暮れには、テラスでビールを飲みながら、蛍が出るのを待った。

 翌日の明け方に「虹が出ているよ」との叫び声。飛び出すと、尾瀬ヶ原の上に大きな虹、それも二本。スマホを掲げている人、木道を虹の下まで走り出す人、みんな子供のようにはしゃいでいる。

 尾瀬ヶ原の帰り道、私は何度も「夏が来れば思い出す、、、、」と歌った。

 あるスリランカ人の高僧が「他の動物に比べて大きな脳を持つ人間が地球を支配している。しかし動物の中で自殺するのは人間だけ。もっと自分が生きるために脳を使わなければ」と言っていた。

 緑の中にいると、体の中のわだかまりが少しずつ抜けていく感じがする。多分脳にも良いのだろう。地球上のみんなに行き渡るほど緑はあるのだろうか。

 台風の後を追うように大分へ帰り着いた翌日、三歳の孫を連れて、近くの公園でセミを追った。孫は遊具やおもちゃで遊んでいる時よりも、虫や花を探している時の方が穏やかな表情になる。私が「セミは七日の命しかないのよ」と言うと「うん」と頷く。

 今年は一段と暑さ厳しい夏である。セミのただ一回限りの夏も孫の三回目の夏も、そして私の七十回目の夏も、一瞬のように思える夏である。

働く=いのちき

働く=いのちき(2016.9)      

 昭和38年、中学校の同級生の何人かは集団就職で名古屋に行った。臼杵駅で先生と一緒に見送った。私は羨ましくも寂しくもなかった。その頃の農村はまだ貧しく自分で自分の道を選べる子供はほとんどいなかったと思う。臼杵川の土手の桜もまだ咲いなかった。集団就職も終わりの頃であり、それからの消息はほとんどなかった。

 まもなく、大分市の海岸一帯に「新産業都市建設」が始まり、新日鉄昭和電工の工場が進出して来た。大分合同新聞に「これから大分の若者は地元に残って働けるようになる」と出ていたのを読んで、なぜか涙が出た。

 その頃私は、短大を出て大分市内の金融機関に勤め、夕方になると預金勧誘で新日鉄の新築の社宅を回ったりしていた。社宅はみな4、5階建てのアパートで、玄関を開けると、フローリングの床が光り、台所にはテーブルと椅子が置いてあった。

 私は、こんなところに住むことができる人と結婚しなければと強く思った。その頃の女性の給料は安く、一人暮らしも難しかったから。

 1980年に米国のアルビン・トフラーが、その著書「第三の波」で、「これからはコンピュータ中心の時代が来る。オフィスにはコンピュータを操作する人か掃除をする人しか要らなくなる」と予言した。

 私はその頃、役所のコンピュータ室で働いていた。コンピュータの技術はそこで学んだ。新しい技術を覚えるのは面白く、そのうちプログラムも組めるようになった。

 私はトフラーの予言通りになると信じて、2人の子供にはコンピュータの勉強をさせ、コンピュータ関連の会社に勤めさせた。ある日、娘がシステムエンジニアの仕事をいやがるので、トフラーの話をしたら、大学院まで行かせたのに「お母さん、私は掃除のほうが合っている」と言われた。そしていつの間にか転職していた。

 今、トフラーの言った事は見事に当たっている。IT(情報通信技術)を使いこなした者が勝ち続け、あらゆるところで格差は広がっている。しかしなぜか、どちらも幸せそうではない。

 今、この国の労働市場は、非正規雇用40%である。中身は低賃金のパートや派遣労働である。労働コストをいかに押さえるかが、企業利益の最大の鍵であり、中小企業診断士である私も、現場でパートのシフト表を前に「最大利益をもたらす人員配置」を検討することもある。

 さらに労働人口の約7割が第3次産業に従事している。かって集団就職で地方の若者を大量に受け入れた製造業は、ほとんど消えてしまっている。つまり多くの人々は、サービス関連産業に短期雇用され、時間給で働く事を求められているのだ。

 夕方になると、塾の周りは送迎ラッシュである。親戚の子は2才から英語塾に通っている。雇用の現場と親の期待にミスマッチはないだろうか。みんなして狭いステージに無理やり上がろうとしているようにも見える。

 この先、子供達の努力は報われるのだろうか。しかし、普通の人はトフラーのように未来を予測できない。

 人はだれでも「いのちき」をするために働かねばならない。私は半世紀近く働いた事になる。たくさんの仕事を経験した。銀行員に始まり、子供が小さい時には、パートで印刷屋、肉屋、魚屋、本のセールス。それからコンピュータのオペレータ、システムエンジニアと続き、今は経営コンサルタントである。

 いつも手当たり次第であったが、どれも我が家の「いのちき」を良く支えてくれた。

 

老年時代を行く

 老年時代を行く         (2016.8)     

 エアロビクスのレッスンの後で、床に座って余韻に浸っていたら、若い人が「気分でも悪いのですか」と覗き込む。テニスの帰りにラケットを持ってコンビニに寄ったら、店員が「エーッ、まだコートで走れるんですか」と声をあげる。私は老人にみえるのだろうか。

 書店には「老後破産」「下流老人」とおぞましいタイトルの本が並ぶ。だれがこんな言葉を作り出したのか。中身の多くは国の政策批判とお金の話である。だから貯金を、保険をとの結論である。

 この国で生まれ、学校に通わせてもらい、良い仕事をする。そして税金を払い、良い子を育て、年を取れば静かに隠居ぐらし。この当たり前のストーリーは思い込みだったのか。とりあえず私はこの国の下流で良い。

 老年時代とは何か。ボーボワールやモロウ、五木寛之上野千鶴子からハウツー本までたくさん読んでみた。私が期待する答えはない。もしかすると野上弥生子の晩年の作品や瀬戸内寂聴の饒舌な発言に答えがあるのかも知れない。

 身近に良いお手本もある。私の登山の師匠である星子貞夫氏は86才。毎年2回は海外遠征隊を組織する。5月にマチュピチュから戻ったばかりで、もう10月のヒマラヤ・トレッキングの準備をしている。今回は私も同行する予定だ。また、私の友人の母親は99才、別府の自宅で一人暮らし。最近は70歳を越え、すっかり老けた友人に「あんた私の妹だったかなあ」と聞くそうだ。

 仮に100才まで生きるとして、今のところ私に期待される役割といえば、母親の葬式を出すことと、娘と息子に「お母さんは大丈夫だから、自分が幸せになることだけを一生懸命考えなさい」と見栄をはり続けることくらいである。期待される役割のない日々、長い老年時代をどうするか。人生の百年の計である。もう少し探って行こう。

 年を取って着るために、コムデギャルソンやヨウジヤマモトの服を捨てないで残してある。白髪に似合うと思う。どこに着ていこうか。八十歳になった私に早く会いたいものである。

冬の贈り物

                              冬の贈り物             (2018.3)       

 セーターはカシミヤに限る。冬になると引き出しから何枚か出しておく。首に柔らかく、暖かいし、軽くて肩も凝らない。

 二十代の頃、いつも良いものを着ている友人がいた。彼女がいるだけでまわりまでおしゃれに見えた。彼女は、子供の頃、父親に定職がなく、みすぼらしい格好で育ったので、自分が働くようになったら、何よりもまず身ぎれいにしたかったと話していた。

 昭和二十年代から三十年代に育った私たちは、誰も着るものに憧れやトラウマがあるはず。私も「田舎で、こんなの買ってどうするの」みたいなブランド物を買いあさってきた。結局、断捨離をしてほとんど捨てることになったが、ゴミ袋の山を前に、自分のしでかした事に吐き気がした。このところ、お気に入りの数着で落ち着いている。

 ランドセル姿の古い写真が一枚ある。ランドセルを背にジャンバースカートと丸首のセーター。首の恥痒さをまだ覚えている。農家の若い嫁が、小学校に上がる娘に、セーターを編んでもらうお金をどう工面したのだろうか。父や祖父をどう説得したのだろうか。若い母の思いが切ない。

 

 冬はやっぱり燗酒である。相生町の居酒屋に燗酒をつけるのが上手なおかみさんがいた。今はどこでも電子レンジでやっているが、この店は大鍋に沸かしたお湯で燗をしていた。アルコールが適当に飛んで香りも味も柔らかく、温もりも長い。いつも佐藤酒造の「千羽鶴」を二合、鰤のあらなどを肴に、預けている「マイ盃」でゆっくり飲んだ。その時々の酒好きの友人と十年は通ったと思う。客同士も仲良くなっていた。

 しばらく遠のいていたら店を閉めていた。人づてに聞くと、最近は客が少なく、マスターも体を悪くし、立っているのがやっとの状態であったとか。通っていた頃、大きい宴会が減って個人客ばかりでは、経営も厳しいのでは思ったが、深く立ち入らなかった。店の跡を通るたびに、どうしているのかと気になっていた。

 ある日、大分駅を出たところで大声で呼び止められた。おかみさんである。勤めの帰りとのこと。そして「盃は預かっているからね」と。おかみさんのつけた千羽鶴の香りが鼻の先にふわっときた。

 

 私のマンションは6階にある。南向きの部屋が三部屋あり、臼杵、豊後大野の山々を望む。日当たりがよく読書や刺繍をしながら、夕暮れに鳥が窓を横切るまで座っているのが、冬の楽しみ。

 このマンションは、娘が大学院を卒業した春に難病が見つかり、家での治療が長く続くと思い、ローンを組んで買ったもの。幸いに娘と息子も、十年ほどここに住んだのち結婚して出て行った。今も、二人の連れ合いに、「うちの子供達をよく見つけてくれた」と感謝している。

 もう部屋の中に子供のものはほとんどない。お一人様で生きていく覚悟もとおに固まっている。日向ぼっこなら六畳一間で良い。

私のシュウカツ

七十の坂をどう登って行くか(私の終活)  

 (2018.4)

 私は、今年七十歳になる。登山でいえば七、八合目である。最後の急登にさしかかり、下界を見下ろすようになる。軽い達成感が心地よく、水分を補給しリュックを担ぎ直して頂上に向かう。

 では私は、自分の七十の坂をどう登って行くか。家の中は断捨離をして不用なものはほとんどない。高齢者向けのCM「死んだ時のための保険」に向かって「子孫に美田を残さず」と返す。

 残る問題は私自身だ。執着が強くいつも不満を抱えている。周りの人や世の中に意見してしまう癖は職業病だ。家族が我慢することも多いはず。私に恨みを持っている人もいると思う。早くこの性格を治さなければ、私はみんなに嫌われたまま年を取っていくことになる。

 老人施設で働いている友人の話。「入居者同士でつかみ合いの喧嘩をする。職員を激しく怒ったり叩いたりする。自分もそうなりそうで心配」。なるかもと思った。若い頃から苦労の多い人だから。

 長い人生で心の中に怒りや恐れが積もりに積もって、その毒が体に回り、自分を制御できなくなるのではないかと思う。窓口で怒る老人も話題になっている。集まれば誰彼の悪口を行ってしまうおばさん達。心に悪性のガンができているのかも知れない。

 私の心の中の毒をきれいに消してしまいたい。できることなら「赤ん坊のように無垢に」「菩薩のように優しく」なりたい。そうすれば良い八十代、九十代が待っている気がする。今からその方法を探さねば。二人の孫がものごころつくまでに変化せねば。これが私の終活である。

 それでも毒が残ってしまったら、申し訳ないが老人ホームで私も暴れる。

 

さきちゃんの家出

                                

 私のひたいの真ん中に大きなホクロがある。いつか街で占いの人から「お釈迦様と同じところにホクロがありますね」と呼び止められたことがある。「お釈迦様は、家族を捨て国を捨て、放浪の生涯を送った人。男性ならそれで良いが、あなたは女性、大地に根を張りそこで生きて行くことが本来の生き方。そのホクロがあることを承知して生きてください。」と四十代の頃だったか言われたことがある。

 このホクロのせいかどうかは別にして、私には家出癖がある。

 小学校に上がった頃、一人で学校の前のバス停からバスに乗って、町の親戚の家に行った。電話もない時代のことで、夜になっても学校から帰って来ないと大騒ぎになった。なぜ町へ行ったのかと叱られても、バスが来たからとしか言いようがなかった。私「さきちゃん」の家出は近所や学校でしばらく話題になった。

 私が生まれ育ったのは臼杵から野津に抜ける谷間の村。周囲を山に囲まれ、夕方になると人通りも途切れあとは全くの闇、家族だけの寂しい夜。いつもあの山の向こうに行くことを考えていた。

 学生の頃、佐世保の米軍基地に原子力潜水艦が入港し、大きな抗議デモが起きた。全国から学生が集結した。私はその頃熊本の短大にいたが、私も行かねばと汽車に乗った。大阪からの大学生が前の席に座っていて、この闘争の意義のようなものをずっと語っていた。大学生とは駅前でちゃんぽんを食べて別れ、あとは街を歩き回った。

 帰ると寮は大騒ぎで、寮母や先生から呼ばれた。反体制を語るほどの知識もなく、ただ九州の西の方に行って見たかったとしか言いようがなかった。学生運動のグループからは「話を聞きたい」としばらく英雄扱いされた。

 社会に出ても家出癖は治らなかった。岩手県に出張した時、用事が済んで、宮沢賢治の童話や詩に出てくる岩手山小岩井農場、くらかけ山やなめとこ山を追いかけているうちに、電車で秋田まで行ってしまった。

 秋田駅前の居酒屋でお酒を飲んでいたら、留守番の息子から「姉ちゃんが家出した。」と電話があった。私が、大学生の娘の門限を九時にしていたことへの反発であった。この時は親子で家出していたのである。

 今私は、子供はそれぞれ家庭を持ち、一人暮らしである。いつでも家出ができる身である。

 五十代になってから本格的に登山を始め、日本アルプスをはじめ、カナダ、スイス、アフリカ、ネパールなど海外の山々にも出かけたが、家出する時のような焼けつくような憧れがない。ただの外出、旅行である。

 天気の良い日の夕方は、マンションのベランダに「晩酌セット」を用意する。目の前は九六位山、その向こうは実家のある臼杵。九十歳になる母親が独りで暮らす。母は何を食べているのかなどと思いながら晩酌をする。

 結局は、ひと山越えて隣の町に移り住んだだけである。ホクロの話はいい加減であった。

 

残念なおじさん

残念なおじさん

       

 男女雇用均等法ができてから30年が経つ。この法律は男女の生き方を少しずつ変えてきた。どの職場でも前面に立って働く女性を見かけるようになった。さらに育児・介護休業法で”イクメン”も増え、家庭の様子も変わってきた。結婚した私の息子は、毎朝、自分で弁当を作っていくようだ。

 まずは人として同じ土俵に立ち、バランスよく役割分担し、子育ても、仕事も楽しめば良いのだ。 

 世の中はおおむね良い方向に向かっていると思うが、まだ少し、残念なおじさんがいる。

 「妻がいなければ生きていけないと思う」と昭和20年代生まれのK氏はいう。夫から「君なしでは生きていけない」と言われた時の妻の全能度はどれほどだろう。

 全能感の中で子育てをし、やがて子供が独り立ちすると「空の巣症候群」が待っている。その後で、夫は死ぬまで自分から絶対に離れられないと気づいた時の幸福感。

 その家庭が幸せならそれで良いのであり、寄り添っている姿は羨ましくもあるが、誰かに依存している人生に不安はないのだろうか。

 だからといって、家庭の手入れを怠ってもいけない。

 飲み仲間の銀行マン、そこそこ仕事ができ、良いお給料ももらっていた。しかし、家庭の手入れが悪いのか、家に帰っても犬しか喜んでくれん、と安酒で酔い潰れて、いつも飲み屋のおかみさんに「もう帰りよ」と怒られていた。

 定年後はまったく見かけなくなったが、どうぞ家で優しくされていますように。 

 何もかも一人でやる必要もないが、何かにつけて「僕は一人で何でもできるよ」と自慢する60歳独身の男性がいる。お金を貯めるのも、家事の段取りも上手い。料理も好きで、自宅に友人を呼んで料理を振る舞う。栗の渋皮煮など絶品だ。

 結婚相手を世話したことがあったが、要求レベルが高く、なかなか承知してくれない。

 彼は、母親をとても大事にしており、旅行に行くと母親へのお土産を忘れない。彼の問題はそこにありそうだ。

 残念なところの全くないおじいさんもいる。

82歳の山仲間。山頂で隣に座って弁当を食べていたら「自分で漬けました」と梅干しをくれた。薄塩で柔らかく甘い。美味しいと褒めると「じゃあ来年は多めに漬けて持ってきますよ」とのこと。聞けば、数年前に奥さんを亡くし一人暮らし。現役では建設技術者。読書家でもあり、山登りの途中での会話は楽しい。料理教室にも通っており、親子丼とカツ丼の作り方の違いを丁寧に教えてくれた。

 彼は、今年7月、念願の富士山ツアーに参加した。登山ガイドが年齢を見て「山頂は諦めてください。行くなら自己責任で」と言ったそうだが、先陣で登頂している。しかし「何も言わせんおじさん」もつまらない。

 行きつけの飲み屋でいつも一緒になる建設会社の社長が「男女雇用均等法ができてから、女子に深夜作業もさせなければならない。昔から男女の役割があったはず」と絡んできた。

「目線をいったん自分の会社から外してみようよ」と言いかけたが、少し酔いが回ってきたので「今度、均等法は女性を幸せにしたかというテーマで勉強してきますね」と言って店を出た。