九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

晩酌をやめてみた

晩酌をやめてみた

                       ゆきのさきこ

 晩酌をやめて三カ月が経つ。ある日ふと晩酌をやめてみようと思った。特に理由はない。

 私はお酒には強い。子供の頃、祖父も父も晩酌をしており、何かにつけお神酒と称して飲まされていた。自分で稼ぐようになると、晩酌が習慣になった。お酒の仲間も増え、各地の地酒を取り寄せて、利き酒会を開いたりもした。日本中の地酒は飲んだと自慢もした。ワインスクールに通い、世界中のワインも味わった。おかげでSNSでやりとりする人の大半、街で声をかけて来る人の大半は、お酒のお付き合いのみなさまである。中小企業診断士の仕事も、蔵元や小売店、飲食店など酒関係の仕事が増えていった。元が取れるほどではないが。

 晩酌をやめてからの一週間は辛かった。ビールのない夕食を前にただ呆然とする。「ご近所B級グルメ」などと称して、近所の飲食店を巡回していたが、お酒のないB級グルメなど子供の食事だ。馴染みのマスターの呼ぶ声が聞こえる気がするが、首を横に振って断ち切る。

 不思議なことに二十日もしたら、お酒のない夕食に慣れてしまった。トマトジュース、炭酸水、ノンアルビールなどの代用品も面倒になった。氷水で十分である。そして三十日を超えたところで、「もう大丈夫、このままで飲まない生活が送られる」と自信がついた。

 ネットによると、世界的にはお酒を飲まない方向に流れているようだ。フランスのワインの消費量が激減しているらしい。もしかして、お酒もタバコと同じ運命を辿るのか。 

 しかし、もともとお酒が嫌いなわけではないし、飲めるのだから、あの楽しみを捨ててしまうのはもったいないではないかと考え直し、五十日が過ぎた頃、恐る恐る、暑気払いでもと山仲間を誘ってみた。その場は楽しかったが、ビールやワインに、恋い焦がれるほどの美味しさはなかった。私の人生の夜毎夜毎のあの喧騒は何だったのだろうか。

 近頃は、どのお酒にどの料理でと考える楽しみもなくなっているのに、なぜか明るい気分の私がいる。楽しみと思っていたのは、実はストレスだったのかもしれない。

 長く生きていれば、誰でもこだわりや癖があるだろう。私は、一番こだわってきたお酒をやめてみた。他にもやめるものがあるかもしれない。一旦やめて身軽になれば、別の新しいものに出会えるかもしれない。

 最近、もう見るべきものは見たとメガネもやめた。一年前にはテレビを見るのもやめている。私に、これまで味わったこともないほど静かな整った夕暮れがやって来るようになった。ただお酒を止めただけなのに。

八ヶ岳縦走(4泊5日)

f:id:kurokui:20210811135645j:plain

コマクサの丘を歩く



八ヶ岳縦走(4泊5日)

7/28(水)

 今年の大分労山夏季遠征は八ヶ岳である。参加者は7人。朝5時18分、大分駅から出発、塩尻経由茅野へと向かう。メンバーが事前にJRの『安近短』を調べてくれていたので、乗り換えもスムーズ。15時には八ヶ岳ロープウエイに乗り込んだ。標高2237mの山頂駅から坪庭の散策路を歩いて20分、1日目の宿、縞枯山荘に着く。ご夫婦でやっている小さな山小屋、他のお客は75才の女性と小学生の女の子。私たちの登る逆コースを来て、明日は蓼科山に向かうとか。(こんな二人でも登れるのだと安心したのは、あとで思えば、大変な間違いであった)。

7/29(木)

 縞枯山荘を6時30分、ラジオ体操をして出発。毎朝、予定より30分早く出発することにしたのはNリーダーの慧眼。この30分が、この後、貴重な時間となる。

 まずは縞枯山2403m)から。立ち枯れになったシラビソの木が、縞状の模様になって、山頂まで広がるのでその名がついたとか。その後、樹林帯の中、苔を楽しみながら、茶臼山、大石峠、麦草峠と順調。コバイケイソウフウロオダマキと夏の花も優しい。白駒池あたりから通り雨。中山峠まで荒れた登山道を延々と登る。

 今日の宿は、黒百合ヒュッテ。ここも宿泊客は少なく静か。この小屋の名物のハンバーグが出た。夜中に外に出ると、まさに「星闌干」。これが見たかったのだ。

7/30(金)

 黒百合ヒュッテを出て、いよいよ、赤岳に向かう。東天狗、根石岳、冠山と進み、やがてコマクサの丘が現れる。霧がかかったような緑の葉の中に、駒の面に似た薄紅色の花がスクッと立つ。手のひらに乗るサイズ、他の植物が生えない砂礫の地に群れ咲く不思議な花だ。

 硫黄岳(2760m)の切り立った断崖を楽しみ、硫黄岳山荘で昼食。女性の登山者が、生ビールを呑みながら、この先のコースのアドバイスをしてくれる。楽しい気分はここまでで、横岳に差し掛かると、岩場、鎖場、梯子が次々に現れる。さらに地蔵ノ頭を過ぎたあたりから、滝のような夕立雨と雷。先頭を行くリーダーの声が厳しくなる。岩場が得意なk女子が先導してくれる。雨は1時間ほどで小降りになり、霧が晴れると、あたり一面、赤、青、黄色のお花畑。無事で良かった。

 赤岳展望荘(2722m)には、予定の1.5時間遅れで着く。熱いコーヒー、ストーブ、真新しい木の二段ベッドに柔かい布団。本当に癒された。

7/31(土)

 今日はいよいよ八ヶ岳連峰の主峰赤岳(2899m)だ。天気も良好。赤岳展望荘の裏から、赤茶色の急斜面を、高度が高くなったので呼吸を深くしながら、ゆっくり登る。1時間ほどで山頂。立派な祠がある。横岳、硫黄岳などこれまで歩いてきた山々が一望できる。

 赤岳からの下りも、ざれ場、岩場、ハシゴ場の連続。権現岳(2715m)直下では61段の、ほぼ垂直のハシゴも現れる。みんなで声をかけあいながら慎重に登る。権現岳を越えると、やがて眼下に青年小屋の青い屋根が現れる。青年小屋(2400m)は別名「遠い飲み屋」。前庭で、橙色のダルマユリが迎えてくれる。ベンチではすでに何組かの宴会が始まっている。土曜日のせいかテント場は若い人でいっぱいだ。お酒、おつまみも居酒屋並みに充実。夕食もメロンが出たり豪華。消灯まで宴会が続き、都会風の会話が聞こえて楽しい。夕暮れの富士山を飽かずに眺めた。

8/1(日)

 いよいよ最終日。天気も良い。最後の編笠山(2524m)に登る。小屋の裏が登山口。途中、岩穴の奥にヒカリゴケを発見。山頂は、富士山、北アルプスの大展望。今回の私たちの縦走路も見渡せる。やり遂げた感に浸る。下りは、押手川、雲海を経てタクシーの待つ観音平へ。ダケカンバの樹林を駆けるように下りた。

 

雨が好き

f:id:kurokui:20210724110051j:plain

サハラ砂漠にロバ。近くに人家があるのか。 

                     ゆきのさきこ

 私は雨が好きだ。朝目が覚めたら、まず雨音を確かめる。マンションの6階の我が家では、雨が地面に落ちる音は聞こえないが、雨粒が樹々に当たる音、雨粒同士がぶつかる音などが聞こえて来る。雨どいを落ちていく音が聞こえたら大雨だ。安心してまた眠る。

 私は、農家に育った。谷の間に細い川が流れ、両岸に田んぼが広がる。空に向かって段々畑。子供の頃、日照りが続くと、家族総出で川の水を担ぎ上げ、畑に入れる。夏は、干からびた水田を前に、ただ空を睨む。水道付きのビニールハウスもまだ普及しておらず、降って来る雨が頼りの農業だった。父は、毎晩、焼酎を飲みながら明日の天気を予想する。なぜか良くあたった気がする。

 雨が降ると「うるおいよこい」をした。父は、牛小屋を片付けたり、くわや鎌の手入れをし、母は、まんじゅうを蒸したり、どこで覚えたのかドーナッツを揚げることもあった。きっと私と弟はその日一日良い子だっただろう。だから、街の暮らしが長くなった今でも、雨の日が好きだ。

 雨といえば、数年前、友人達とモロッコのツブカル山に登った後、サハラ砂漠をワゴン車で移動したことがあった。砂と岩に倒れた樹木、枯れ草の砂漠が続く。ここに雨はいつ降ったのだろうか。砂漠との境がないハイウエーを砂埃をあげて走る。地平線に目指す街が見えたかと思えば、「あれは蜃気楼、あと三時間くらいかかるよ」とガイドが言う。乗る前に渡された一リットルのペットボトルの水はぬるく、腕には塩が吹いていた。

 私は「とんでもないところに来てしまった。砂漠の盗賊やアルカイダに襲われたらどうするの」と心配し、ただ目を閉じ、無理やり故郷の小川や畑を思い出したりしていた。

 高い旅行費用のおかげで、辿り着いた砂漠の中のホテルには、どこから水を運んで来たのか、シャワーもプールもあった。涼しい土壁の部屋で出された熱いミントティは甘く美味しかった。慣れてしまえば現地ガイドやドライバーは明るく楽しい青年達だ。ガイドは「僕の父親はこの近くで農業をしている。弟たちを学校に行かせたいので、僕はガイドになった」と話してくれた。砂漠の中でどんな農業ができるのか。もっと詳しく聞けばよかった。そのガイドとは今もフェイスブックで交流している。

 日本に帰って、まだ砂漠の火照りが冷めない頃、雑誌でイスラム国の少年兵士の写真を見た。その時に作った短歌がある。「春の雨 もし行けるなら 砂漠に立つ少年兵士のシャツを濡らしに」(細く優しい雨を知らない少年たちに)。 

 最近、雨の日のことで、ひどく辛いことを思い出した。昨年、サポート教員として近くの小学校に半年ほど勤めた。子供達が帰った後、ランドセル置き場に、折りたたみ傘が何本か残されていた。最近は共働きの家庭も多く、急な雨に傘を持って来れない家もあるのだろう。そして思い出したのだ。私の二人の子供は傘をどうしていたのだろう。私には傘を持って迎えに行った記憶がない。その頃の私は、職場で認められること、生活を安定させることに必死だった。頑なで気がつかない母親だっただろう。勝手にひとり親家庭になった。傘のこと以外にも、悔やむことはたくさんある。

 私の子供はもう四十代半ば。下校時に傘がなかったことをまだ覚えているだろうか。濡れて帰るのは楽しかったとか、いつも差しかけてくれる友達がいたとか、そんな雨の日の思い出でありますように。

これからは文章修業

f:id:kurokui:20210523092051j:plain


 

 この三月に、中小企業診断士の事務所を閉じ、「これからは念願の文学修業に入る」と家族に宣言した。

 私は、七十歳になる前後から、これからの日々をどう過ごそうかと考えてきた。出た結論が「文学修業」である。そう、私はこれがやりたかったのだ。ではどうするのか。

 まずは読書だろう。書店、図書館、アマゾンから「あっこれ読みたい、今読まねば」と思ったものを次々に手に入れる。昨年、あの忌まわしいテレビを処分したおかげで、時間もたっぷりある。椅子に座ったらまず本を読む。目が疲れたら空をみて、頭が疲れたら近くの公園を散歩する。なんて幸せな事だ。

 図書館で借りた本は、読みっぱなしでは申し訳ないので読書日記をつける。誰かにすすめたいと思ったものは、短文の練習と思って、感想文をフェイスブックに載せる。

 そして、短歌も修業の一つに入れよう。日野昌美老師の短歌教室に通い始めて五年。月に二首を持参して添削をしてもらう。師は「うん、いいですね。よくわかりますよ」と言いながら手を入れる。途端に、私の稚拙な歌が定型の立派な歌になる。師が手を入れすぎて違う歌になることもあるが。

 まだ他所様にお見せできるものではないが、風が吹いた、雨が降った、誰かとすれ違ったなど何でもないことが、三十一文字の小宇宙になる。

 詩は、学生の頃から書いて来た。詩は、もう一人の自分に会いにゆくように書く。もう一人の自分が私は結構好きだ。ときおり、鳥肌が立つような作品ができることがあり、新聞や同人誌に投稿する。最近、誰かに読んでもらえればと、ネットの創作サイトに掲載を始めた。

 もう一つ、地元の新聞社の文章教室でエッセイを勉強している。日頃感じている違和感のようなものを捉え、原稿用紙三枚程度にまとめる。書く時は、考え過ぎてか、首の後ろが熱くなる。

 今のところ、先生の添削を受けた後、秘密のブログに載せてある。そのうち「村上春樹」のいうような「誰も書かなかった世界を自分の文体で」書けるようになりたい。

 文学修業は、仕事のようにプライベートの時間と分ける必要もない。山に登るのも、飲み会も、同じ話ばかりする女友達とのおしゃべりも修業の内である。修業のために諦めなければならないものは何もない。

 定年退職後、勝手に文筆家を名乗っている男性の友人がいる。すでに電子書籍を三編ほど販売しているが、今のところ私も入れた身内三名が買っただけである。居酒屋でお酒を飲みながら「今度は定年がないからいいね」などと励ましあっている。そう、この修業は終わりのない旅。邪魔する人もいないし、ゆっくりで良いのだ。

 ふたつの小さな花びん

 我が家に、手のひらに乗るサイズの陶器の花びんが二つある。一つは玄関でペン差しに、もうひとつは毎朝飲む薬を入れてある。

 この花びんは、50年前、私が勤めていた銀行が、信楽、九谷、清水などで焼いたミニチュアの花瓶セットを、何かの記念に預金者や職員に配ったものである。確か5個あったはず。

 銀行勤めは四年だった。結婚退職が当たり前の時代に、私が出産して勤めた最初の女性であったためか、それなりに職場の風当たりは強く、特に思い出のある花びんでもなかった。

 結婚する時、両親から和ダンス、洋ダンス、三面鏡といわゆる嫁入り道具なるものを持たされ、大分市内のアパートの1階で所帯を持った。部屋の前に小さな花壇があり、まだ赤ん坊だった娘に見せようと、チューリップを植えたりした。

 チューリップを見ないまま、連れ合いの転勤で、佐伯の番匠川の近くに引っ越した。特にすることもなく、毎日、乳母車を押して土手に上がり、水量たっぷりの河口に向かって歩いた。

 台風が来るたびに番匠川が氾濫するらしく、近所の人が荷物を2階に上げるのを加勢してくれた。佐伯での2年の間に、男の子が生まれた。

 その後、大分市の明野団地へ。そこで二十年、公営団地の最上階から、太陽が豊後水道に昇り、くじゅう連山に沈む様子を眺めて暮らす。

 同じところに長く住むと、荷物が増える。狭いところに、子供の机やダイニングテーブル、ソファが並ぶようになり、かさばる嫁入り道具は実家に送ったり、人にあげたりして、消えていった。

 ある時、急に思いついて自分の机を買った。受験勉強中の娘の机と並べて、グズグズと詩を書いたり、中小企業診断士の資格試験の勉強もした。

 子供達が就職するのを機会に、公営住宅では婚約者も連れて来にくいだろうと、今のマンションを買った。

 嫁入り道具のうち、最後まで残っていたのが、ベルサイユ宮殿風の三面鏡である。「鏡台の横に貼ってあるヘプバーンのポスター外して私は私」と恥ずかしい短歌が残っている。三面鏡に映る私の姿をもう楽しめなくなった頃には、脚もぐらつくようになり、真ん中の大きい鏡一枚を残して解体し、不燃物に出した。

 子供達はそれぞれ所帯を持ち、今、私は1人暮らし。ここ数年の断捨離ブームに乗って、家の中のものを捨てに捨て、部屋はさっぱりした。

 物を買ったり捨てたりの暮らしの中で、軽い決断や重い決断もあったと思うが、今となっては、どれが良かったのか悪かったのか、もうどちらでも良いことである。

 それにしても、50年も前にやって来たこの小さな花びんが二つ、こうして残っているのは不思議なことだ。「お前たちどこに隠れて、ここまでついて来たのかい」 

 娘には「私が死んで部屋を片付ける時に、捨てるのが惜しいと思うようなものだけにしておくから」と言ってある。花びんもそのうち消えるだろう。

 

f:id:kurokui:20210217164123j:plain

 

山とお酒はやめられない

別府の街を上から眺めたくなって、秋晴れの続く日、バスと電車を乗り継ぎ、扇山に登った。

登山仲間のおばさん達と登るのもいいが、おしゃべりが多すぎて、肝心の山の様子は覚えていない。だから、最近、私一人で登る山を開拓した。今のところ、鎮南山、霊山、扇山、由布山、鶴見山、法華院の六つである。

 登山口の桜並木が真っ赤に紅葉している。別府の街を背に斜面を一気に登る。行く手を遠足の小学生達が賑やかに登る。追いついて学校の名を聞くと、扇山の別名が付いた大平山小学校だだった。

 一番の急登を過ぎて一休みする。青い別府湾を船が行く。街の中にある公園の森は赤、黄、緑のかたまり。別府は公園が多い街である。山際のあちこちに湯けむりがたなびき、新しく仲間入りした豪華ホテルも見える。山頂からの眺めより、途中からの眺めの方が街の様子がしっかり見えて好きだ。こんなに美しい街はそうあるものではないよと別府の人の誰彼となく伝えたい。

 後から登って来た中年の女性と言葉をかわし、一緒に山頂まで登る。女性は別府市内で働く看護師さんとのこと。山頂でお弁当を食べながら「この頃、なんだか胸がざわつく日があるの。だから山に来てみたの」と打ち明けてくれた。そういえば50代の頃、私もそうだった。だから山を再開したのだ。別れぎわに一人でも登れる山を紹介し、この人の胸のざわつきが消える日を願いながら山を下りる。下を見ると、小学生達はもう下りていて舗道を歩いている。学校のそばに山があって良かったね。

 大分駅についたら四時。予定通り、駅前の昼呑みもやる居酒屋へ。この時間だけ半額のビールと本日のオススメ牡蠣フライを注文。私のすぐ後に遠慮がちに入って来たジャンパー姿のご老人も同じものを注文した。運ばれてきた牡蠣は大きくて熱々。これに冷たいビール、もうたまりません。ご老人は、ジョッキを両手で抱え、ゆっくり飲んでいる。「おじさんも、これまで大変だっただろうけど、4時から一人で飲める境遇になって、よかったね」と声をかけたかった。

 老人は一杯切りで帰って行ったが、私は牡蠣があまりにも美味しいので、千羽鶴の冷やを追加した。お店のお兄さんは、いつもお酒を追加すると嬉しそうな顔をしてくれる。

 そしたら今度は二人連れのご老人の登場。「とんちゃんの話はいつも面白い」と言いながら座り、カボスサワーを注文。とんちゃんとは村山富市氏のことだろう。二人ともジャケットを着ている。何かの会合の帰りのようだ。労働組合の元幹部か、面白い会話を聞けそうだと期待していたら「うちのが、認知が進んでもう入院させようと思っている」「うちも年寄りを施設に入れている」と介護話が続き、ドリンクもほとんど減らない。

 お二人の話が低調なままなので、お勘定1700円を払い、リュックを背負って店をでる。背中に「ありがとう」の声がかかる。振り返るといつものように店員が二人、店の外に出て手を振っている。この店のおもてなしのプログラムだ。私も慣れているので「ありがとう」と大きく手を振った。

 少し酔いの回った頭で考えても、今日一日、自分の好きにしたが、何も悪いことは起きなかった。これから七十代の坂をどんどん登っていくが、山とお酒、この組み合わせはやめられそうにない。

 

f:id:kurokui:20210222190623j:plain

 

70代:就職してみた

 何を血迷ったか、また就職をした。

 毎日一万歩を目標に近場の野山を歩いている私だが、その体力と時間があるのなら、まだ働いた方が良いのではと思っていた矢先、近所の公民館で小学校の「サポート教員」募集のチラシを見つけた。チラシには、年齢のことは書いていないし、都合の良い時間でとある。早速、市役所に履歴書を出し面接を受けたら、何と採用された。採用者の説明会では、私ははるかに高齢であった。勤務は近くの小学校に決まり、週三日、夏休み明けから出勤した。

 私は、銀行員、各種外交員、肉屋、魚屋、団体職員、経営コンサルタントと色々な職種を経験してきたが、学校は初めてである。

 私がサポートするのは三年生の二クラス。初日、担任のベテラン先生の後について教室に入ると「あっ先生のお母さんですか」の声、そうか、そう来たか。子供の熱気で爆発思想な教室に少し目眩。しかし、先生は子供達を魔法のように落ち着かせ授業に入る。

 クラスは三十数名、授業に追いついていない子供を見つけて、サポートするのが私の役目。早くみんなの名前を覚えて「〇〇さん」と呼びかけたい。最近は、「君」とか「ちゃん」とかは推奨されていないらしい。

 国語、算数、社会、理科と久しぶりに教科書を前にしてドキドキする。特に漢字はドリルを使って繰り返し練習する。習字を習っているのか美しい字を書く子供もいる。私は漢字練習帳に赤ペンでマルをつけながら、子供達が大きくなって、漢字は、日本と中国だけの貴重な言語だと知る日が来ることを思うと、少し楽しくなる。

 一番驚いたのは先生の働きぶりだ。休憩時間はなく、教室に朝からずっと子供といる。給食も一緒だ。さらに毎日六コマある授業で、子供に理解させようとする先生の技術や工夫にも恐れ入る。

 大変なのは授業だけではない。授業を聞かない子、すぐ喧嘩する子、すぐ泣く子、すぐ保健室に行きたがる子、マスクをつけたがらない子。先生は、その都度、丁寧に向き合い納得させて進む。どの場面でもまっすぐ本気。確かに人を育てる仕事である。こんな小学校の先生が全国に四十一万人いるのだから、この国が悪くなるはずがない。学校で子供は守られていると改めて思う。

 私の仕事は三月まで。三時間立ちっぱなしも慣れた。偶然もらったご褒美のような仕事である。