九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

さきちゃんの手

さきちゃんの手

 

 久しぶりに私を「さきちゃん」と呼んでくれる人ができた。二歳の孫である。母方のおばちゃんもいるので、私は名前で呼んでもらうことにした。

 私が身内だとわかるのだろうか「さきちゃん」「さきちゃん」と手を出して来る。顔は家族の誰彼に少しづつ似ており、私の赤ん坊の頃の写真にも似ている気がする。当たり前ではあるが不思議でもある。

 私は神仏など信じておらず、この世の事はこの世で解決できると思っている不埒な人間であるが、時々、家族は体の奥深く交信しながら繋がっているのかもしれないと思うことがある。

 父は畑で倒れて病院に運ばれそのまま亡くなった。その時私は職場にいたが、朝からわけもなく不安で、腹が立ち周りにきつく当たったりしていた。そこに弟から連絡が入った。

 娘が流産で救急車で運ばれた時も、私はテニスコートにいて、今日はどうしてこんなに腰が痛いんだろう思っていたら、電話が入った。

 「虫の知らせ」とゆうのか、体の奥深くに身近な家族の異変を感じ取る何かがあるのかもしれない。

 私が生まれたのは十二月の寒い朝。産湯を、裏庭の霜を被った菊の繁みに捨てていたのは誰だったのか。両方の祖母はすでに亡くなっていたので、手伝いに来ていた母の姉妹か親戚のおばさんだったのだろう。

 大きくなるまでに、オムツを変えてもらったり頭を撫でてもらったり、私にもたくさんの手が当てられたに違いない。じっと心を静めれば、体のあっちこっちにその手の感触が残っている気がする。いつもその手に背中を押されたり引き止められたりしてきたように思う。

 私たちは、お金や物、権力や地位が優勢の時代を作ってきた。彼はまもなく、その生きにくい世の中に出て行く。この先何を持たせれば良いのだろうか。

 とりあえず彼の頭を撫でておこう。ご飯をたくさん食べた時、滑り台を上手に滑れた時などいっぱい頭を撫でておこう。「さきちゃんの手」が、彼とその後の子孫まで伝わるほど何度でも。

 彼が生まれた四月二十三日の朝は、街じゅうの木香薔薇がいっぺんに咲き出したような晴れた日だった。産院で対面した帰りに、記念にと一鉢買ってベランダに置いたら、今年も黄色い花がたくさん咲いた。