九六位山日記(ゆきのさきこ)

私のマンションのベランダから見える山は、九六位(くろくい)山です。雨はいつもこの山を越えてきます。

2022年夏、蝶ヶ岳横尾コースを登る

 

蝶槍から穂高連峰


古い山仲間と、北アルプスにある常念岳蝶ヶ岳の縦走を計画した。ところが常念岳山荘が、従業員のコロナ感染で休業となり、蝶ヶ岳だけを目指すことにした。

 8月21日朝、メンバー4人は、松本駅に集合。JRとバスを乗り継いで上高地へ。上高地湿地帯を通り、梓川右岸の景色を楽しみながら、徳沢を経て横尾山荘に 向かう。途中、夕立に遭い、ずぶ濡れになったが、横尾山荘で入浴、服も乾燥して、翌日の登頂に備えた。

 8月22日朝6時過ぎ、登頂開始。このコースは急登続きで厳しいと聞いていた。メンバーの中で一番年長で、ひとりだけ女性の私を心配してか、私が先頭を歩くことになった。私は最近、白山にも登ったし、今年の労山の例会では、祖母山の九折コースや阿蘇のバカ尾根を経験しているので、何とかなるとひそかに思っていた。

 蝶ヶ岳は2677メートル。高山病を心配し薬(高山病の薬があるのか)を飲んでいるメンバーもいる。私は自慢ではないが、いや自慢だが、ヒマラヤの5400メートルを経験しているので、高山病は恐れていな い。とにかくゆっくり動くことだ。最初は30分毎に休み、標高が高くなってからは、20分毎に休憩を入れた。

 30分で槍見台に到着。良いペースだ。雲の間から一瞬、槍が岳が見えた。何年か前の大分労山会の遠征で、槍ヶ岳から上高地までの帰りの道の遠かったことを思い出した。

 ずっと急坂が続くが、梯子やロープなどの難しい箇所はない。時折、樹林の間から上高地穂高連峰が見える。他の登山グループと、追いつき追い越されながら、声を掛け合う。

 私の山の師匠のH氏が「空気が薄くなってきつい時には、呼吸と足の運びを合わせること」と教えてくれたことがあった。教え通りに、呼吸と一歩一歩の足の動きに全集中する。

 樹林を抜けた途端、穂高連峰の眺望だ。まだ昼前。晴れてくれて良かった。横尾分岐から、そのまま蝶槍の”とんがり”を目指す。私が今回参加したのは、この稜線を歩きたかったからだ。

 ハイマツの中から”グエッー、グエッー”と雷鳥の鳴く声がするが、姿は見せてくれない。

 13時過ぎ、蝶ヶ岳山頂を踏んで、真下にある蝶ヶ岳ヒュッテに到着。メンバーと ビールやワインで乾杯する。ヒュッテは、コロナ対策が行き 届いており、布団の間はカーテンで仕切られている。 

 やがて、霧が立ち込め、風も出て寒い。夕食まで何もすることがないので、ホッカイロにダウンを着て、スマホキンドルを読む。山小屋でゆっくり読書する贅沢。これもやりたかったこと。

 遅く着いた宿泊客の中には、常念岳に登ってきた人もいた。10時間はかかったはず。その選択もあったのだろうが、私たちはこれで良かったのだ。

 夕食は、ご飯のお代わりは自由とのことだったが、高度のせいか食欲がなかった。でも、お酒は美味しかった。

 夜中に目を覚ますと、窓の外に大粒の星。

 8月23日朝6時過ぎ、霧の中、三股コースを下る。登山道は、木の階段で補強されているので、とても歩きやすい。途中、常念岳が見えた。「登りたかったよ。また、来るからね」と自分に言い聞かせる。4時間弱で三股駐車場へ。タクシーで豊科駅に向かい、松本駅へ。

 残念ながら夏の花は終わっていた。それでも、茂みの中にギンリョウソウの群落や紫色のトリカブト雷鳥が食べ残したハイマツの黄色い実、などじゅうぶんに楽しめた。

 私は、7月に白山、荒島岳に登ったばかりなので、家族から「また行くんか。コロナも大変な時に、何を考えているのか」と思われてはと、今回は黙って来た。無事に下山できて良かった。ホント。

雨ヶ池を越えて


   
梅雨の晴れ間、1人で、長者原から雨ヶ池を越えて、法華院山荘まで歩いた。

    湯布院駅から熊本行きのバスに乗り、10時過ぎ長者原に到着。タデ原湿原から樹林に入ると、鳥の声がやかましい。

 何度かの大雨で、以前歩いた山道が壊れている。新しい踏み跡を探しながら登る。濃い緑の森を抜け、谷を一つ渡り、急坂を一時間ほど登ると、雨ヶ池に着く。

今の時期は、ショウブの群生が見られるのだが、大雨で池の植生が変わったのか、花は一本もない。この後に咲くはずのヤマラッキョウは大丈夫だろうか。

池を眺めながら、菓子パンを食べていると、キャンプ道具を担いだ人が「おひとりですか」と声をかけてきた。今日は土曜日だ。坊ガツルのテント場が賑わうだろう。

リュックを背負い直して、三俣山を回り込むように坊ガツルに向かう。 

坊がつる讃歌四面山なる坊がつるーの四面とは久住、三股、大船、黒岳あたりのことか。鳴子川を真ん中に、タデ原湿原が広がる。山からの涼しい風に吹かれながら緑のそよ風いい日だねーと歌いながら、鳴子川沿いに、法華院山荘を目指す。

 2時前に山荘に到着。まだ誰もいない温泉に入る。九州で一番標高の高いところにある温泉だ。目の前に大船山の稜線。

 夕食まで3時間ある。宿の前庭に大きい木のテーブルとベンチがあって、登山客は温泉に入った後、缶ビールなど抱えてゆっくりする。山荘の主人は、麓の村で酒屋も営んでおり、お酒は、たくさんある。

 私も、缶ビールとノートを抱えて座る。最近は、思いついたことをそのつどノートに書く。自分の考えを、ふわふわと妄想に終わらせないためだ。

 テーブルの反対側には、本を読んでいる男性。少し離れて、缶ビールを前に、うつむく男性。縦走で疲れたのか、それとも感動しているのか。もしかしたら下界の悩みをひきづっているのか。彼とは、夕食も朝食も、1人客同士で隣だった。

「ここ、いいですか」と缶ビール二本抱えた中年の男性が来た。(えっ、今日私、誰ともおしゃべりしたくないの)と思ったが、「どうぞ」とうなづく。彼は、しばらく黙って飲んでいたが「今日はですね」と久住山に登ってきたことを話し出す。そのうち、今年の北アルプスは、どのコースがいいか悩んでいると計画を披露するので、私は、自慢したい気持もあって、五年前に登った表銀座の厳しいコースをすすめた。その後も、お互いに登った山の話で盛り上がった。

 彼はビールを三缶空にした後「またお会いしましょう」とテント場に帰った。私は(こんなお婆さんにまた会いましょうだなんて)と、気分良く2缶目を空にした。

宿は、六畳の個室。朝夕2食付きで1万1千円。もう少し安ければもっとこれるのにと思う。久住山から流れ落ちる鳴子川の激流に、一晩中、雨が降っているようだった。

翌朝、昨日の道を折り返すことにする。友人が一緒なら、せっかく来たのでと、三俣山でも登ろうとするのだが、1人の時は、欲張らない。

 日曜日なので、子供連れが、騒がしく登ってくる。高齢のご夫婦と「ご苦労さま」と声を掛け合いながら、ゆっくりすれ違う。

樹木の色が、昨日登ってきた時より落ち着いている。山は、もう秋の準備か。

 2時間で長者原に着く。湯布院行きのバスを待ちながら、ずいぶん遠くに来たように思えた

 

 

新しい場所

 孫がこの春、小学生になった。両親とも働いているので、3月いっぱいまで保育所に行き、4月1日からは、小学校に併設されている学童保育所に移った。誰も知った人がいない場所で、1歳で保育所に入った時のように泣きわめくのではないかと、家族は心配していた。

 初日は、私が学童保育所に連れていくことになった。校庭には桜吹雪が舞っていた。孫は、学童保育所の玄関に立つと、自分の名前のある靴箱を見つけ、さっと靴を入れポケットからマスクを取り出し、小走りで教室に入った。

 中を覗くと、ワラワラと子供がいて、孫もその中に交じって見えなくなった。私は、ギュッと抱きしめて、バイバイと言おう思っていたが当てが外れた。孫は、自分の前にある新しい場所に、一瞬も立ち止まることなく向かっていったように見えた。

 この春、身内にもう一人、新しい場所に向かった人がいる、93歳の母である。

 孫の入学式の日の朝、弟から、母が老人ホームに入所したと電話があった。最近、家の中で転んで、起き上がれないことがあったらしい。いつも様子を見に帰っていた弟に「老人ホームに行く」と言うので、かかりつけの病院に相談すると、系列の老人ホームにちょうど一つ空きがあるとのことで、介護認定もまだ受けていない状態で、手続きが進んだと言う。

 母は、谷間の一軒家で、ひとりで畑仕事をしながら、”山姥”のように暮らしていた。だから私は、母は、施設での共同生活など望むはずはないと思っていたし、最後は、畑で倒れるのだろうと覚悟していた。

 面会に行くと、”うちの山姥”は、こぎれいになってニコニコしていた。みんなが良くしてくれると、職員の方に手を合わせてもいた。それにしても母は、よく決心したものだ。新しい場所に向かう日が来たと思ったのだろうか。先に逝った姉妹達や同じ地域の年寄りの生き方で学んでもいたのだろう。九十三才でも、決心するのだ。

 

 私は、小学生がみな登校した後の、朝の道を歩きながら考えた。私は置いて行かれていないか。年金をチマチマやりくりしている間に出遅れていないか。手近な友人や安易な楽しみにしがみついていないか。今年の春は、特別に早く過ぎていく気がする。

どこででもできる

キリマンジャロ直下のキャンプ

 4歳の孫が、トイレから出てこない。のぞいてみると、膝の上に文庫本を広げている。挿絵を見ているのか、楽しそうなのでそのままにしておいた。「出たよ」と呼ぶので行くと、お尻を突き出して「ふいて」と言う。「えっ、自分でふけんの」。文庫本を読もうとするほど上半身は意欲的なのに、下半身はどうしたことか。

 温水シャワーの使い方を教えようとしたが、あることを思い出して、止めた。

 私が、キリマンジャロに登ったのは10年前。行程は6日、登山隊はメンバー8人にポーター16人。キャンプ地にテントを張りながら、ゆっくり山頂を目指した。タンザニアは、イギリスの登山文化の伝統を受け継いでいるらしく、キャンプ地に着くと、手洗い用のお湯が配られ、熱い紅茶とビスケットが出てくる。色が真っ黒なポーターたちとも、日が経つにつれ、言葉を交わすほどに仲良くなった。

 山頂に近くと、ほとんど全員が、高山病にやられたり、飲み水に当たったりで、嘔吐、下痢症状が続き、かなりの苦行でもあった。

 下山後の反省会で、60代の女性が2人が、「もう二度と来たくない」言う。理由はトイレだ。「ウオッシュレットでないと無理」。キリマンジャロは、タンザニアの国立公園であり、重要な観光資源でもある。トイレもそれなりに整っていたと思うが、彼女たちには、辛いことだったのか。彼女たちの子供の頃の家や学校のトイレも、かなり問題があったとは思うが。

 現在、日本の温水洗浄便座の普及率は80パーセントだそうだ。海外では水質面や衛生面の問題があり、それほど普及していないらしい。

 2020年主要先進国平均年収ランキングで、日本は22位。韓国、スロベニアイスラエルの後、日本。その後はスペイン、イタリア、ポーランドと続く。日本人は、先進国に収入では負けていても、清潔な温水洗浄便座に座っていられるのだ。

 しかし、孫に温水洗浄便座の使い方など教えてはならない。あれを使い出したら、自分のお尻を、自分で拭けない人間になる。

 たしか、作家の沢木耕太郎さんだったと思うが、海外で生きて行くための条件として『誰とでも仲良くできる』『何でも食べることができる』『何処ででも眠ることができる』と三つ挙げていた。私はそれに『どこででも用が足せる』と付け加えたい。

終わっている

 元旦の日本経済新聞「春秋」欄を読んで、もしかして終わっているのでは、と思った。

 紙面のトップは「資本主義を創り直す・成長の未来図」。記事によると、日本は、三十年間も実質賃金が増えておらず、国民総貧困化と云われ、非正規雇用者が40%を超え、女性の活用は進まず、国民の幸福度は他の先進国に比べて見劣りしている、と。いつの間にこんなことになったのか、とあらためて驚く。

 そして、いつものように左下の「春秋」欄に目を移す。期待して読み始めたら、夏目漱石の著作が引用されていた。「えっ、今なぜ漱石なの」。別に漱石が悪いわけではない。漱石は引用されることが多い作家なので、私は、タブレットの読書アプリに全集をダウンロードし、その都度参照しているほどだ。

 「成長の未来図」を描こうとしているこの場で、引用するのにふさわしい作家は、他にいなかったのか。もしかして、新聞の読者が高齢化しているので、それに合わせて、共感を得やすく漱石にしたのか。それとも、筆者が高齢で、脳内のネットワークが自然に明治の文豪に繋がってしまうのか。それとも、今が、日露戦争の時代と類似しているとでも思っているのか。それなら本当に日経新聞は終わっている。

 終わられても困る。私は、土曜版の読書欄をひいきにしている。最近、紹介されて読んだ本に、上野千鶴子著「在宅ひとり死のすすめ」がある。高齢化社会にあって、高齢者は社会や家族に甘えることなく、介護保険制度を利用して、しっかりと一人で死んでいく設計をしようと提案している。私もそう考えている。高齢者ビジネスにはすり寄らないぞと。

 もう一冊は、ブレイディみかこ著「ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー」である。移民社会のイギリスに暮らす、日本人の母親と英国人の父親を持つ中学生の「ぼく」が、偏見や差別に出合うたびに、悩み、知恵を絞り、自ら解決していく話である。この本を読めば、移民を受け入れていない日本の若者が、グローバル社会の切磋琢磨から何歩も遅れをとっていることがわかる。

 さらに、この本は、欧米で広がっているルッキズム(外見至上主義)への批判も、教えてくれた。誰も、見た目で判断されない時代が来る。容姿がどんどん劣化していく私にとっても良いことだ。

 私は、できれば家族や親戚から、”水戸のご隠居”ではないが「明野の隠居」とよばれたい。幸い隠居には、読書や考える時間がたっぷりある。今何が起きていて、これがどう変化して、自分らの生活にどのように関係してくるか、しっかりとした考えを持っておきたい。そんな年寄りが、身内に一人ぐらいいた方が良いだろう。だから私も終われない。誰も相談に来なくても、別に構わないが。

 

 

 

読書会の後で

 

 読書会の後で、雑談をしていたら「男は優しい女性が好きですから」と、声がした。声の主は60代後半の男性である。その言葉に私は、突然、怒りが湧いた。

「男に好かれる女性」は女性にとって「呪いの言葉」である。呪いの言葉とは、相手を支配しようとする言葉。受けた人は、その言葉に縛られてしまう。

 私が若かった頃、昭和40年代、多くの女性は、まだ男性に頼らなければ生きて行けなかった。二十歳を越えたら、良い結婚相手に巡り会うことが一番であり、お茶やお花、料理を習い、容姿を磨くことが独身生活の中心だった。田舎の町で経済的に自立することの選択肢は限られていた。自分磨きとか、自己実現などと云う言葉には、出合わなかった。

 では、男性はどうだったのか。その日の読書会の課題図書は、中島敦著「山月記、李陵」。中国の紀元前の時代の男性が主人公の5つの短編。詩人を目指すが、才能に乏しく、途中で虎になった男。武勇を次々に挙げても行ったが、結局、辺境の地で忘れ去られた男。どれも皆、志半ばで虚しく終えた男達の物語である。大昔から、男性の呪いの言葉は「ひとかどの者になる」である。

 しかし、その読書会の場で発言するほど考えがまとまっていなかったので、黙っていた。ひと月もやもやが続いた。

 次の読書会で、よせばいいのに、前回言い残したのでと「呪いの言葉」について発言した。この日の課題図書は、村上春樹の「ダンス、ダンス、ダンス」。村上春樹は、既存のシステムにがんじがらめの私たちが、解放され、癒されていく方法を、追求しているように思う。だから、村上春樹を読むと勇気が湧くのだ、と上手く繋いだ。

 しかし、読書会の後で、私はまた後悔した。

 読書会には、数人の若い人たちが参加していたが、私の発言に誰も反応しなかったのだ。

 考えてみれば「男女雇用均等法」「男女共同参画社会」「育児休業制度」とジェンダーフリーを国レベルで取り組んできた時代に生まれ、社会に出た人達だ。「男性に依存するなんて考えはありません」と強く言いそうだ。

 五十年も経てば、世の中は変わる。若い世代の苦しみもまたあるはず。だから気むづかしい読書会に参加するのだろう。年長の私は、聞くべきだった。「あなた達の呪いの言葉は何ですか」と。呪いの言葉は、表に出してしまうことで、威力が弱まるのだから。

 私が「男性から好かれる事」を気にしなくなったのは、いつ頃だっただろう。仕事が面白くなり、資格も取り、怖いものが少しずつ消えて行った頃だったかもしれない。

 

台所を汚さない日

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 「今日は、台所を汚さない、お炊事をしない」と決めた朝は、近所のパン屋のカフェで、チーズオムレツに焼きたてのパンとコーヒーだ。帰りにネットで話題のコンビニスイーツを買おう。夕方は、パソコンを抱えて、マクドナルドに行こう。

 時折、我が家の玄関のドアノブにパック入りのお惣菜がぶら下がっている。一人暮らしの私を気遣うご近所の方のおすそ分けだ。いつも登山仲間の女性達と、山頂でお弁当のおかずの交換に盛り上がる。そういえば、韓国との交流登山に参加したときも、まるで親戚のおばちゃんのように、漬物や干し柿を配っている人がいた。言葉はわからないが、きっと「これ美味しいよ。私が作ったのよ。食べて食べて」と言っていたはず。

 自分の作った料理を美味しいと言われるほど嬉しいことはない。料理上手の女は、無敵だと多くの女性は信じている。

 私の母も、自分の料理を食べさせるのが好きだった。親戚が集まると、お寿司や炊き込みご飯を大量に作り食べさせ、帰りにも持たせる。しかし、私は、母が自分で作った料理を、美味しそうに食べているのをみたことがない。母の好きな食べ物を思いつかない。おせち料理の残りを、いつまでも食べている姿しか思い浮かばない。

 実は、私も似たようなことをしていた。近くに住む息子の家族に料理を運んでいたが、ある日気がついた。共働きで大変だろうと、私の料理を押し付けているだけなのではと。

 台所との付き合いは長い。小学校に上がる頃から炊事を引き受け、見様見真似でうどんも打った。結婚し、子供が2人できてからは毎日「今日は、何を食べさせようか」と考えない日はなかった。

 そして今は、自分だけの台所だ。お気に入りの道具を並べて、好きなように料理している。台所を汚さない日を作るのは、ささやかなレジスタンスだ。誰に向けてか、料理にこだわってきた私自身に向けて。

 街には、新しいレストラン、居酒屋が次々に開店する。みんなが3日に1回でいいから外食にしたら、飲食店が繁盛するだろう。主婦の手作りである必要などないのだから。

 だからマクドナルドのハンバーガーかと言われると困るが、マクドナルドのハンバーガーは、世界標準の食べ物だ。西アフリカの砂漠のはずれの街でも見かけた。ハンバーガーを嫌わなければ、世界中どこに行ってもやっていけるだろう。

 そろそろ、台所から距離を置こう。